近代イエメンの民族主義と鷲(1)

                               1962年共和国成立以前

                           「クライシュの鷲」、「サラディンの鷲」(13)

キーワード:

南北イエメンの相違 北はシーアのザイド派が多数 南はスンニーのシャーフィイー派が多数

北はオスマントルコとの抗争  南は英国保護領の軋轢

第一次世界大戦後、北イエメン独立 ムタワッキル朝王国

南イエメン アデン他英国保護領となる。

1918年「イエメンアラブ王国」成立   ザイド派カーシム系ムタワッキル朝

イマーム・ヤフヤー国王とイマーム位に   トルコからの解放

サウジアラビアとの国境紛争  「大イエメン構想」

1948年クーデター、イマーム・ヤフヤー暗殺される

イマーム・アフマドの時代  エジプトと相互軍事同盟

エジプト主導の「アラブ連合」に参加

南イエメン 英主導の「南アラブ首長国連邦」、後に「南アラビア連邦」を結成

1962年9月、イマーム・アフマドは就寝中死亡

後継者は長男のムハンマド・アル・バドル

クーデター起こり、共和派が「イエメン・アラブ共和国」を成立させる。

 

 

 

イエメンは、他の多くのアラブ諸国と同様、近代にいたっても第一次世界大戦を迎えるまではオスマントルコ帝国により支配されていた。といっても海岸部が主で、内陸及び砂漠地帯、高山地帯にまでは支配は及ばなかった。また断続的に王朝が成立して、中世では海岸部にあるザビード中心に知の拠点ともなっていた。

 

現在のイエメンの領域は、伝統的には北部と南部、より具体的には西北部と南東部に大分されていた。西北部においては、湾岸部(ティハーマ地方)は砂漠気候で、内陸部は高原部と3000m級を超える山々をいくつも持つ山岳部である。南東部は高原が迫る高原地帯と内陸部は砂漠地帯である。

しかし南部に行くほどモンスーンの影響を受け、降雨が夏にも見られ、水がある程度豊富で、農業が盛んであった。砂漠地帯をのぞいて至る所畑が作られ、山々の天辺まで段々畑が続く。この驚く様を何か所も目にすると、日本人よりも勤勉性ではイエメン人の方がはるかに優れているのではないかと思い知らされる。

 

かつて、シバの女王、マアリブのダムなどで有名な文明をサバ王朝やヒムヤル文字や文化でなじみのヒムヤル王朝などBCの古代から栄え、乳香や没薬などの香料交易で栄えて、「幸福なるアラビア」とギリシャやローマからは羨望のまなざしで見られていた地域であった。

 

イスラム時代になっても変わらず、イエメンはアラブ民族の祖国と考えられていた。またシーア派の一派ザイド派が9世紀にはイエメン北部に信徒が根付き、断続的ではあるが、すでにアッバース朝中期897年ザイド朝を勃興させており、近現代まで隠然たる勢力を占めていた。イエメンのザイド派については、すでにブログで述べておいた。(2016年10月6日付けの拙稿ブログ「イエメンのシーア派(ザイド派) al-Zaydiyyuun」を参照)

 

一方イエメンの湾岸部(ティハーマ地方)や南部はザイド派を受け入れることなく、正統のスンニー派が信じられ、様相を異にしていた。湾岸部のザビードを首都として、ラスール朝(1229-1454)などは学問や知的拠点として、学者や旅行者を引き付けた。イブン・バットッゥータなどもパックス・イスラミカスの平安のもと、ここを訪れ、その繁栄ぶりを記している。

 

13世紀末登場したオスマントルコは次第に北から南にアラブ世界の中に領土を広げてゆき、16世紀初頭にはイエメンにまでその触手が伸ばされた。トルコ帝国の、その征服の過程で、何度かその支配に屈したが、イエメン独自の文化や知的先進性は保たれていた。

 

近代になってのイエメンは、北ではオスマントルコとの対抗、南では英植民地化との抗争で始まった。北イエメンの方は、オスマントルコとの対抗があり、体制が強化されていれば撃退できたが、弱体化していると支配を受けた。16世紀初頭には初めてオスマントルコの侵略を受け、ターヒル朝が滅ぼされている。1635年にはトルコ支配から独立してザイド派カーシム王朝が起こる。近代になってから1820~1840年まで、オスマントルコの命を受け、エジプトのムハンマド・アリーの外征を受け、その支配に服した時期もあった。その後1840年再びザイド派カーシム王朝が復活する。およそ30年独立を保つが、1849年 オスマン帝国が再び支配の触手を伸ばす。

1871年再度オスマントルコ軍の外征に会い、その支配に屈服し、トルコ領とされてしまう。

 

一方南イエメンでは、西欧帝国列強の植民地獲得の時代、イギリスはインドに至る道を確保するため、アラビア半島の海に面した重要拠点を次々と奪っていった。1839年アラビア海、インド洋の航海安全の拠点として、アラビア半島の南西端アデンが選ばれ、その周辺と共に懐柔策も取り込んで保護領とする。

さらにイギリスは圧力を強めて、1869年南イエメンの南端のアデンを正式の保護領として、周囲の地域や部族と威力と懐柔策で保護領化してゆく。

 

 

 

    1918年「イエメンアラブ王国」成立

1904年 第一次世界大戦が起こる以前、現地のザイド派(シーア派の一派)指導者であったイマーム・ヤフヤーがトルコ軍を追い出し、首都サヌアに進出する。北部及び山岳地帯から公式なザイド派イマームと認められる。

1911年,当時高原地帯の支配権を掌握していたザイド派イマーム・ヤフヤーはオスマン帝国の宗主権のもとに事実上の独立を得,これが北イエメンの基礎となった。

1914年 第一次世界大戦が起こり、オスマン帝国は同盟国側に立って交戦。南イエメンを保護国化しているイギリスは連合国としてトルコ軍と戦う。

1918年 オスマン帝国は第一次世界大戦に敗北を喫し、本土以外のアラブ諸国の領土が連合国側の委任統治となった。北イエメンはこの機を失せず、完全独立を達成した。ザイド派イエメン・ムタワッキル王朝の誕生である。ザイド派のムタワッキル朝の「イエメンアラブ王国」が成立した。イマーム・ヤフヤーが国王に。しかし独立当初から北部のシーア派勢力と南部のスンニー派勢力の抗争が続く。

しかし1930年代にイマーム・ヤフヤーは北イエメン全域を征服する。

 

 

 

  ムタワッキル朝「イエメンアラブ王国」の国旗と国章

 

上図はイエメンアラブ王国(ムタワッキル王国)の国旗。旗全体を赤地して、その中央に剣(=イスラムのジハードの象徴)を描き、周囲にザイド派の象徴、五つ星(ザイド派はシーア派イマームの五代目に当たる)を配する。

下図は1927年から1962年までのイエメン王国の国章。全体をハート形にして中央の上に王国を表す冠を戴き、盾が支える。盾の中には中央に城壁か堤か、その下は水を表し、マアリブのダムを表すか。上には乳香樹らしき樹が、そのわきの中空の右手にはアラビア文字Daadが、左手は数字8かローマ字Bが添えられている。左右は旗竿が交差して国旗が膨らんで垂れ、末端は盾の下部に繋がれている。旗竿の頂にはイスラームを表す三日月が左右から王冠の三日月を見守るように並行して配されている。

 

 イエメンの北部で領土問題を巡って、サウジアラビアとの国境紛争が生じていた。1934年、イエメンに進撃してきたサウジアラビア(イブン・サウード王)軍を迎え撃ったが敗れた。しかし戦後の和平協定に持ち込み、サウジのターイフで条約が結ばれた。その結果。海岸部のアシールがサウジアラビアに併合される。内陸部のナジュラーン地方の領有をめぐっては未解決のままに残された。(国境問題の最終的決着はイエメンが共和国になってからサウジ王ファフド(Fahd ibn Abdul・Aziiz)とイエメン大統領のサーリフ(Alii Abudullaah Saalih)との間の交渉を待つことになる)

海岸地方ではイスラムのスンナ派が優勢で,高原地帯ではシーア派の分派ザイド派を信奉する勢力が強かったことは変わらないが、北イエメンでの南端の主要都市タイッズはザイド派が次第に信奉者を増し、代々の皇太子が理事として治めることが多かった。

 

1934年英領南イエメンでは、北イエメンの圧力を警戒して、イギリスがアデンをはじめ南アラビア一帯を保護領として強化する。

 

1945年 イマーム・ヤフヤーは、「アラブ諸国の国際連合」構想を実現すべく、「アラブ連盟」の発起人に名を連ねた。

 

1946年 南イエメンでも、アデンを支配するイギリスに対して解放運動顕著に成り、政党も誕生する。

 

1947年には北イエメンは「国際連合」に加入する。

 

 

    イマーム・ヤフヤー暗殺される

1948年2月イマーム・ヤフヤーはクーデターで暗殺される。彼の息子三人、それに側近一人も巻き添えをくらった。首謀者は宗教指導者の一人アブドッラー・イブン・アフマド(“Abdullaah ibn Ahmad al-Waziir)であった。アブドッラーはヤフヤーの息子イブラーヒームを新イマーム、新国王として推挙した。

息子イブラーヒームは民族主義、改革主義者で、父ヤフヤーとは対立しており、アデンに逃げ、逃亡生活を送っていた。アデンでは1946年「自由イエメン」団を立ち上げ、北イエメン開放を狙っていた。そして宗教指導者のアブドッラーらと謀り、改革を起こすべくクーデターを決行した。

 

しかし息子イブラーヒームと宗教指導者のアブドッラーらは新イマーム、新国王として三男のハサン・ハミードッディーンを推挙した。三男のハサンは当時首都サヌアと南境の要衝タイッズを結ぶ街道上のイッブ州の知事を務めていた。

 

しかしこのクーデター劇も長続きはしなかった。収束するまでに4週間を要した。

その正統性と人気とから、北方や周囲から長兄のアフマッドを推す勢力が圧倒した。まして「皇太子」Waliyy al-Ahadの称号を受けていたアフマドである。彼は首都サヌアに入城して、クーデター勢力を一掃した。こうして新イマーム、新国王となったアフマドは、ザイド派勢力だけでなく、海岸部、南部のスンニー派シャーフィイー勢力にも支持された。

クーデターの処理が終わると、イマーム・アフマドは自分の本拠地タイッズに戻って国政を進めた。

 

上図向かって左がイマーム・ヤフヤーの正装すがた。独特のターバン、腰布にはイエメン伝統の短刀ジャンビッヤを帯びる。手には数珠を握る。

右はイマーム・ヤフヤーが居城としていたロックパレス。首都サヌア近郊、涸れ川ワーディー・ダールの突き出た大岩の上に築かれた宮殿。今では博物館になっているので、観光名所の一つに数えられる。左奥手から階段状に部屋が上に続き、屋上からの眺めはワジに広がる農園まで一望できる。近郊を歩くのもまた一興。いずれもインターネット画像より。

 

ここでイマーム・ヤフヤー(1869‐1948)のことをまとめておこう。

彼は1869年2月18日にサヌアで生まれた。ザイド派イエメンでカーシム王朝の継承者となるが、新たなムタワッキル朝として継承する。宗教と政治の指導者として活躍してゆくが、父のイマーム・ムハンマドの死の伴い、1904年同派のイマームとなる。35歳の時であり、十分政治・宗教の頂点を極めていける年であった。若くして公正と慈愛とで知られる性格であった、

無法と暴力がはびこる風潮を終わらせようと意を用いた。ユダヤ人に対しても寛大であり、彼の治世のもとではユダヤ人たちは大いなる恩恵を受けた。以後オスマン帝国支配に対する反乱を指導,11年大幅な自治権を得,18年独立を達成した。また北の大国サウジアラビアとも国境を巡って争い、さらに南のアデンのイギリス植民地勢力とも「大イエメン」の統一を悲願として、ジハードとしてしばしば軍事的衝突を繰り返してきたが、その開放は困難であった。道半ばにして亡くなってしまった。彼には12人の息子があり、それぞれの地方長官を務めさせていたが、上に述べた通りクーデター騒動はあったが、後継者のイマームで国王として収まったのは長男のアフマド(Ahmad ibn Yahyaa)であった。

 

 

   北イエメン イマーム・アフマドの時代

イマーム・アフマドは皇太子からムタワッキル朝第二代国王、および新イマーム称号ハミードッディーンHamiid al-Diin(現世の慈愛者)の名のもとに父の後継者となった。

おりしもパレスチナの地にイスラエルが独立国家を作った。そのため周辺国と第一次中東戦争が始まり、翌年西欧やソビエトの介入で終結する。

1949年6月 イスラエルの建国に伴って、イエメンのユダヤ人たちも5万人が移住(1952年まで続く)。イマーム・アフマドは寛大にユダヤ人の出国を許した。

 

1954年 サウディアラビアとの敵対関係を改め、友好条約を結ぶ。イエメン人が旅券無しで行き来でき、また石油関係でも労働提供できるようになった。

1955年 イマームはアデン保護国とするイギリスに対して、領土返還を求めると同時に、南東部ハドラマウトの部族領土を次々と18もの強制自治領化として支配下に置く政策を進めていることに警告して、南北イエメンの大同団結を訴えた。

同年4月 イマーム・アフマドの兄弟二人と将校団がクーデターを企てるが。すぐに鎮圧される。

1955年4月 イマーム・アフマドはエジプトと相互軍事同盟を結び、軍事指揮団としてエジプト顧問を迎え入れる。

1958年 民族統一政党イエメン・バアス党誕生、「アラブ連合」に参加。イエメンでも民族運動が活発化して、エジプト、シリアなどで主導的な政治活動をしていたバース党の影響、およびナセル主義者の影響を受け、政治の表舞台に出てくる。民族政党イエメンのバアス党は、「イエメン・アラブ社会主義バアス党地域指導部」として発足。同年、王国でありながら見民族統一の旗印に、国王容認のもとエジプト主導の「アラブ連合」に参加。

 

同年、イエメン王国が「アラブ連合」の民族統一運動の実現の一環として、南イエメンの“英国の占領地アデン”の奪還を主張して、アデン保護領に駐留の英軍を攻撃する。

 

1959年、イエメンの民族自立運動の高まりを受け、英国はアデン保護領の首長たちを徐々に組織化し、「南アラブ首長国連邦」を結成。さらに、1960年の国連総会で「植民地独立付与宣言」が決議されたことを受けて、1962年には南アラブ首長国連邦を「南アラビア連邦」に発展させた。

 

1962年9月、イマーム・アフマドは就寝中死亡した。後継者は長男のムハンマド・アル・バドルと決まり、称号マンスールal-Mansuur(勝利者)を得て、国王及びザイド派イマーム位に即位した。しかしイマーム・アフマドの死、およびイマーム・ムハンマド・アル・バドルの就任式のあわただしさの中、政権交代の隙をつくかたちでクーデターが発生した。アブドッラー・サッラールらの率いる共和派、改革派の武装集団がサヌアにある宮殿を襲い、イマーム・ムハンマド・アル・バドルを国王から引きずり下ろし、共和国、「イエメン・アラブ共和国」となることを宣言した。

 

国王派はサヌアから逃亡して、山岳地帯に落ち延びたが、復活は成らなかった。

こうして断続的ではあるが900年以上の長きにわたってイエメンを支配してきたザイド派はムタワッキル朝をもって滅亡することになる。以降は「イエメン・アラブ共和国」の時代となる。

 

ここでイマーム・アフマドのことをまとめておこう。

イマームになるまでは、彼は長らく南方の拠点タイッズの町及び州の知事を務めて、父ヤフヤーの政務を助けていた。

彼は1891年6月18日に生まれ、1891年6月18日に生まれであり、奇しくも父ヤフヤーと生まれた日付が同じであった。王位およびイマーム位を継承するまでは北イエメンの南端の要衝タイッズの知事を務めていた。父に従って内政や外交、部族問題にも協力して取り組んでいた。父の教えは中世的な伝統を貴ぶものであった。

1927年、父から世継ぎ(waalii ahad)の称号を正式に受けた。1949年父を継ぎ、王位とイマーム位とを継承する。父と同じく保守的であったが、外交面では時代に即した流れも把握して、改革思想家も閣僚に配していた。エジプトやソ連および中国とも友好条約を結んだ。南イエメンを支配するイギリスと対抗して、統一イエメンを実現するため、また経済・軍事援助を期待したためであった。しかしやがて革命的民族運動思想家は宮廷から追いだした。その中にはアフマド・ヌウマーン(Ahmad Muhammad Nu'maan)などがおり、その後の共和国時代に首相や外相の勤める要人もいた。

イマーム・アフマドの性格は、父に似た鷹揚な面があったが、気を許す人士も相談役も持たなかった。好意的な臣下からは、大きなターバンを巻くことを常としたために、「大ターバン」と綽名された。しかしいい加減な性格なところがあり、筋が一貫せず場当たり的なところ、残忍性なども併せ持ち、公平性にも欠ける面があった。覚せい剤のカートやモルヒネに入り浸ることもあり、その結果の所業もあり、人身傷害も起こし悪い面に働いた。

それゆえ一族のものや反対派から命を狙われることも多かった。このため反対勢力からは「悪魔のアフマド」とか「ジン」とかとのあだ名も頂戴していた。1948年から62年までムタワッキル王国の国主及びザイド派イマーム位を務めた。