リビアの近代民族主義と鷲(1) 

       サラディンの鷲及びクライシュの鷲の復活以前

                    「クライシュの鷲」、「サラディンの鷲」(11) 

キーワード:

 近代のリビア   オスマントルコ領  伊土戦争   イタリア領リビア

 リビア独立運動   サヌーシー教団  砂漠のライオン

 北アフリカ戦線   砂漠のキツネ   教団の武力闘争

 「リビア王国」の誕生    イドリース一世国王に

  教団のイマームへの敬愛はいつまでも

 

    20世紀初頭までのリビヤ

         オスマン帝国に従属、イタリアの支配下に

 

オスマン帝国に従属

リビア事情ついては、近代化の動きは他のアラブ諸国より遅く始まった。

20世紀初頭まで、西欧列強の帝国主義が、その近代化された武力を生かした植民地化の波は、世界を覆い中東のイスラム諸国も例外ではなかった。

リビアは長らくオスマントルコに従属していたが、西欧の植民地化、帝国主義化が進む中で、後発のイタリアがその食指を対岸のリビアに伸ばしたのだ。

こうして1911年9月、トルコとイタリアとの伊土戦争が勃発した。一年余り続いた戦闘も、近代装備の整ったイタリアが1912年10月勝利を決定して、リビアを植民地化してしまう。

 

イタリアの支配下に

イタリアは敗北したオスマン帝国からローザンヌ講和会議でリビアを三分していたトリポリタニア、フェザーン、キレナイカを獲得した。占領統治にあたってイタリア王国政府は三つの植民地州をリビア州として一括的に統治する事とし、「リビア保護領」とした。

大国オスマン帝国にイタリアが勝利したしたことは、オスマン帝国の従属国から脱しようとするバルカン半島諸国に大きな勇気を与えた。バルカン諸国が一致団結すれば、オスマン帝国に勝てるという希望と自信は、バルカン同盟の結成と第一次バルカン戦争を促すことになる。

 

リビアがイタリアの保護領となった時点で、アラブ世界はアラビア半島内陸部を除いて、ほとんどが西欧列強の影響下に飲み込まれてしまう。地中海に臨むマグリブ諸国はすべて西欧列強の支配下にはいってしまった。リビアから西のチュニジア、アルジェリア、モロッコはフランス勢力の中に、そしてリビアから東、エジプトやアラビア半島沿岸部、イラクなどはイギリスの勢力下に入ってしまった。さらにフランスはレバノン、シリアに権益を強固に保持していた。レバノンのベイルートは「中東のパリ」と言われたほど、洋風化された洗練された町になっていた。

 

   リビアの民族自立運動 

      ザヌーシー教団の抵抗

リビア事情ついては、その民族運動、自立運動は、第二次世界大戦より以前に始まっていた。

リビアは他のアラブ諸国と違って、サヌーシー教団という独自の宗教勢力が根強い力を持っていた。それゆえリビアではオスマントルコからも、またイタリアの支配からも脱して、自立・独立の運動はその当初から存在していた。その盛り上がりに起伏はあったのだけれども。

サヌーシー教団とは、神秘主義教団の一派で、イスラム教の近代化をはかり,それまでのイスラムの来世主体主義を排し,現実を直視し、ヨーロッパ列強の侵入に対処するため現実のイスラム社会の改革を志向した。そして独自の軍隊を組織して列強の侵入と戦うことを旨とした。

このように西欧の植民地化に対するリビアの抵抗運動は、宗教運動と結びついているところに特徴がある。リビアではイスラム教でも、上に述べた神秘主義教団でありながら、現世と向き合うサヌーシー教団が根強い支持を集めており、その教えに基づいて、外国勢力を排除する運動はそれ以前から強弱はあるものの断続的に続いていた。

 

 

  第二次世界大戦とリビア アフリカ戦線

1939年 第二次世界大戦起こり、北アフリカでも枢軸国と連合国の戦争が展開された。リビア戦線ではイタリアは枢軸国として、エジプトを保護国としていた連合国側のイギリスと戦う。リビアにとっての抵抗運動は、イタリアがリビアからエジプトへ侵略する気勢をそぐこととなった。

特にムッソリーニの頃、重圧と圧倒的戦力差の中で、支配勢力のイタリアと戦ったサヌーシー教団のイマーム(指導者)で、リビアの国民的英雄ウマル・ムフタール“Umar Mukhtaarは「砂漠のライオン」としてイタリア軍に恐れられていた。最後にはイタリア軍に捕らえられ、公開処刑された。とはいえ、なおリビア国民には、殉教者として国民的英雄となって語り継がれている。なおウマル・ムフタールの伝記は1981年に、『砂漠のライオン』Lion of the Desert)としてリビア・アメリカ合衆国合作で映画化された。わが国でも入手でき、鑑賞ができるはずである。

 

1941年 枢軸国のドイツが、劣勢のイタリアを助力して、北アフリカ戦線でエジプト西部へと侵略で進路を広げる。「砂漠のキツネ」とうたわれたドイツ将校ロンメルが派遣される。ロンメルは第二次世界大戦のフランスや北アフリカでの戦闘指揮において驚異的な戦果を挙げた、傑出した指揮官として知られる。彼は劣勢にあったイタリアに代わり、ドイツ軍を投入して、北アフリカ戦線では優勢に導き、砂漠戦を得意として侵略を進めた。 

広大な砂漠に展開されたアフリカ戦線において、巧みな戦略・戦術によって戦力的に圧倒的優勢なイギリス軍をたびたび壊滅させ、敵対する側の英首相チャーチルをして「ナポレオン以来の戦術家」とまで評せしめた。アフリカにおける知略に富んだ戦いぶりによって、第二次大戦中から「砂漠の狐」の異名で世界的に知られた。こちらも映画化されているはずである。

しかしリビアの本拠地からあまりに遠くに深入りしたために、イタリアの前線への補給線が断たれ、ロンメルは撤退を余儀なくされ、撤退戦では多くの苦い敗北も味あわせられた。

 

     戦後英仏の委任統治下に、すぐに独立運動

1945年 第二次世界大戦終わる。リビアは敗戦国イタリアから解放された。が、委任統治国として、依然帝国主義の影響下に置かれた。大戦でのイタリア敗戦により植民地支配から解放されて、名義上は国連信託統治領となった。が、実質は戦勝国の統治が続くことになる。リビアは三分割された。北アフリカ戦線で連合国のエジプト側からイタリア及びドイツと戦ったイギリスが、地中海側のトリポニタニアおよびキレナイカを委任統治(=支配)した。また南方のチャドの方から戦ったフランスがリビアの南西部フェッザーン地方を統治することになった。

 

     1951年リビア独立、「リビア連合王国」の誕生、翌年「リビア王国」となる

しかし戦中のサヌーシー軍のゲリラ戦は連合国側からの参戦との意味も認められた。さらには、その後の世界各地のナショナリズムや民族解放運動がリビアでも輪を増して展開され、実を結ぶ。1951年リビアを構成する3州、トリポニタニア、キレナイカ、フェッザーンは、連合して独立した。「リビア連合王国」の誕生である。

国王はサヌーシー教団のイマーム(指導者)だったイドリース1世が推挙された。リビア人である限り、国王にはイドリース1世が選ばれることに大きな抵抗はなかった。オスマン帝国領のキレナイカ(リビア東部)で長年サヌーシー教団を率いてきたし、オスマントルコ及びイタリアに対して、サヌーシー教団は民族自立を目指し、イタリア支配に抵抗し、第二次世界大戦では、枢軸国の一員として参戦したイタリアに対して連合国側について戦った。

が、1943年にイタリアが敗戦した後のリビアはイギリスとフランスの共同統治領とされた。しかし英仏もイタリア戦での貢献は認めており、リビア独立を承認して、連合王国として、また国王がサヌーシー教団のイマーム(教主)であるイドリース一世であることに異存はなかった。

翌1952年にはイドリース1世の元、国名を「リビア王国」に改称した。

 

 

向かって左が「イタリア領リビア」時代の国章(1940-1943)。旗のデザインは説明がないので不詳であるが、三分割されており、それはリビアが三州で成り立っていることを白星と共に象徴していよう。上部に描かれているのが波が地中海を、左下の黄色い砂漠の大地とナツメヤシの木が恐らくフェッザーン地方なのであろう。

右がその後の「リビア王国」の国章(1952-1969)。王国らしく、冠を二重に配して。中心の黒円の中にイスラムの象徴の月星を置いている。サヌーシー教団の旗印は赤・黒・緑であるが、ここでは、王冠なので緑の代わりに金色に変えている。

 

 

向かって左「リビア王国時代の国旗」(1951年から1969年)

リビア初の国旗が制定された。この国旗は赤・黒・緑の水平三色旗に、中央には白い三日月と星を配したものであった。中央の黒は、赤と緑の二倍の幅があった。赤は力、黒はイスラムの戦い、緑は緑の地(天国)へのあこがれを表す。「三日月と星」はイスラム教のシンボル。白は国民の行為を表す。この旗は元来19世紀以降この地を拠点としたイスラム教のサヌーシー教団を率いるサヌーシー家 の旗であったが、カダフィー革命崩壊後、再び復活する。

右はイドリース1世(在位1951―1969年)、サヌーシー教団のイマームでもあったが、国王としては、革命により一代限りで終わる。

 

 

イドリース1世は、即位後は冷戦下において、外遊もこなし、エジプトのナセル大統領と会談することなどもあったが、旧宗主国のイギリスやアメリカと緊密な関係を保ち続け、ロイヤル・ダッチ・シェルなどの石油関連企業が同国内で石油の掘削を行う権限を与え、西側諸国への安定した石油供給に協力し続けた。イドリース1世はまた外交も、温和な路線をとっていた。

 

しかし、そのような親西側の態度に反発したムアンマル・アル=カダフィー陸軍大尉とその青年将校団の同志が、イドリース1世が病気療養でトルコに滞在中の1969年9月1日に無血のクーデターを起こしたため、亡命を余儀なくされた。その後しばらくの間トルコに滞在し、さらにリビアの隣国のエジプトに亡命し、1983年に死去した。

 

後の話になるが、カダフィーもまた、敬愛から保護の手は回していたようである。さらに、カダフィー政権の末期から、その急進的政策と独裁を帯びてきたために、トリポリタニアを中心に不穏の動きが露出し始めた。イドリース1世の死後、カダフィーに対するリビア国民の不満が折々に噴出していた。

そして2011年リビア内戦が発生。反カダフィー勢力や野党側の象徴として、王国時代の国旗やイドリース1世の写真が掲げられたこともあったし、反カダフィー勢力、リビア国民評議会は王国時代の国旗を旗印として、カダフィー政権側と戦った。2011年8月首都トリポリを制圧して事実上リビアの代表政権になった。リビアの新たな国旗が制定された。この国旗は王国時代イドリース1世が定めたもの(本ブログ3番目の図)であった。