「カーディシーヤの戦い」に至る経緯
カーディシーヤの戦い Ma”rakah al-Qaadisiyyah(1)
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イラン・イラク戦争 パノラマ風の絵ハガキ12枚
カーディシーヤの戦いの概略
ウンマ(信仰共同体)からリッダ(離反) リッダ平定から外征へ
「アッラーの剣」ハーリド(Khaalid ibn Waliid)
西方戦線 ビザンツ(東ローマ)帝国 ビザンツ皇帝ヘラクレイオス
シリヤのヤルムークの戦
東方戦線 サーサーン朝ペルシャ 皇帝ヤズデギルド3世
イラクのカーディシーヤの戦い 象軍の参加
ムスリム軍総大将サアド・ブン・アビー・ワッカース
一騎打ち(mubaarazah、biraaz)で始まる戦法 一騎打ちの闘将ムバーリズmubaariz
一騎打ちの相手・対抗馬キルンqirn
イラクの紙幣について、以前のブログで筆者手持ちのものを紹介した。その一つ25ディナール紙幣の表図は、カーディシーヤの戦いの一コマであった。下図に再現。その際、現地調査で入手した他の 資料があるので、カーディシーヤの戦いのことはいずれ紹介したい旨述べておいた。
カーディシーヤの戦いこそアラブ(イラク)がイランに勝利した歴史に残る大戦であり、サッダーム・フサインもまた、イラン・イラク戦争をそう位置付けて戦意高揚を図り、紙幣の図柄に選んだことが知られている。
筆者の手元にある資料はパノラマ風の絵ハガキ12枚で構成されている。イラク文化情報省の遺産・遺跡局の国営の発行のものである。が、印刷所を見たらなんと日本の会社ではないか。Alpha Indusrties Co.Ltd.Japan、Dai Nippon Printing Co.Ltd.Japan(大日本印刷?) とある。下図参照。
絵ハガキ12枚セットは、葉書用封筒に収まり、上にアラビア語でBaanuuraamaa Ma”rakah al-Qaadisiyyahとあり、下に英語でThe Panorama of Al-Qadissiya Battleとある。英語表記のほうカディッシッヤと読めてしまうので、ダブっている/s/の一つを除去すればカーディシーヤと読めるので、そうしたほうが良い。
またカーディシーヤの戦い図に関して、インターネットの画面を一覧して調べてみたところ、筆者のこの所蔵品と同一のものは見当たらなかった。そこで、ここに紹介できることは貴重であり、新たな資料となる価値もあろう。
さらに判明したのは上の25ディナール紙幣のカーディシーヤの戦い図は、このパノラマシリーズの一枚から採られていること、さらには12枚セットの最初のものから採られてであることが判明。セットの一枚が紙幣にそのまま採用されて、それがまたこの葉書セットの封筒の表紙を飾っていることが分かった。
筆者の手許にある「カーディシーヤの戦い」シリーズ、絵ハガキ12枚セット収容されている封筒。向かって上が表、下が裏。
カーディシーヤの戦いの経緯
イスラムのウンマ(信仰共同体)からリッダ(離反)
イスラムの預言者ムハンマドの死(632年)の後、多くの有力部族がイスラムのウンマ(信仰共同体)からリッダ(離反)していった。こうした諸部族は預言者との契約がその死によって破棄されたと考え離脱したわけであった。一方では当時の契約の概念に従ったまでのリッダ(離反)であった。他方、まったくの反抗からのリッダ(離反)もあった。有力部族ほど反抗・敵対が強く、またムハンマドを真似て預言者と称して部族を引き付ける偽り預言者たちが出た。正統カリフとして推されてウンマ(信仰共同体)を守護する立場になった初代アブー・バクルは、こうしたリッダ(離反)した部族を説き伏せたり、拒否したり偽り預言者に従う部族とは戦わねばならなかった。
こうしているうちにアブー・バクルは亡くなり(634年)、推挙されて第2代目カリフとなったウマルは、イスラム世界の確立を鉄血の意思を持って実践していった。イスラームの元、再統合するために離反部族を従わせていった。そのムスリム軍には軍を動かす有能な指揮者が何人かおり、その使命を果たしていった。特に軍事の天才で、「アッラーの剣」と預言者から称号をもらったハーリド(Khaalid ibn Waliid)がいた。このハーリドの軍功は目を見張るものがあった。
リッダ(離反)平定から外征へ
こうして半島内の統一を終えたムスリム軍は、カリフ・ウマルの指示で、その勢力を維持発展させながら、外征に向かうこととなった。北方には文明を築いた異民族の大敵、それまで西アジアを二分してきた二大勢力、西方シリヤを支配していた東ローマ(ビザンツ)帝国、東方イラクのサーサーン朝ペルシャが存在した。それらに対決するべく外征の段階に入ったのである。
正統カリフ・アブー・バクルの時代に、すでに勇将ハーリド・イブン・アル=ワリードに率いられたアラブ軍は外征に入っていた。イラクに侵攻すると立て続けにサーサーン朝軍を破り、633年5月に古代イラクの首府であるアル・ヒーラを陥落させるなど成果を上げていたが、ハーリド将軍がその後兵力の半分を割き、自ら方向を西に転じた。シリヤのヤルムークで東ローマ(ビザンチン)帝国の軍勢と戦闘態勢に入っていった。
そこにはサーサーン朝のヤズデギルド3世とビザンツ側のヘラクレイオスとの協定があり、ともに南の新勢力イスラム勢力を叩いておこうとの合意があって、ともに戦力を南に向けて集中していたからである。
シリア戦線ではビザンツ皇帝クレイオスは636年5月に攻勢を開始した。数的にも劣勢であったムスリム軍は押されていたが、イラクから転戦してきた勢いに乗るハーリド将軍の軍勢によって、趨勢が変わった。
対ペルシャ戦の総大将となるサアドのメディナから北上してヒーラまでの進軍行程。途中の諸部族へも働きかけ義勇兵を募った。赤字で記したのが進路に近い部族名、タミーム族にも注目。
一方東方のイラク戦線では事情が異なっていた。サーサーン朝軍はひとたび態勢を立て直すと、軍勢を集中して反撃を開始した。ムスリム軍は一度はメディナからの増援でサーサーン朝軍をクーファ近郊で破るが、サーサーン朝軍の反撃を食らい、ユーフラテス河畔で大敗を喫し、多大な損害を被って撤退した。ムスリム軍はイラクを維持するには十分な兵力もなかったため、撤退してアル・ヒーラも放棄し、アラビア砂漠近くまで退いて、そこで戦闘を続けずに和平交渉に入って、時間を稼いだ。
兵力不足に悩んでいたカリフ・ウマルは、イラクに再侵攻するのに十分な兵力を集めるため、アラビア全体から部族兵を集めた。ウマルが司令官に任命したのは、クライシュ族の名門出身のサアド・ブン・アビー・ワッカースだった。636年、サアドは4,000の兵を率いてメディナ近くの宿営地から出発し、諸部族から徴用を求め、また義勇兵たちも参加させて、アラビア北部に集結中の軍と合流してイラクに向かった。
ウマルは軍事経験が浅いサアドに、経験豊かな指揮官たちの助言を聞くように命じた。サアドがイラクに着くと、ウマルはクーファから50キロほどのカーディシーヤと呼ばれる小さい町で待機するように命じ、ムスリム軍はここで宿営した。リッダ戦争でウンマから離反していた諸部族も動員したため、集められた軍勢は熟練の戦士たちではなく、新兵同様なアラビア中の兵卒の寄せ集めだった。そのため、ウマルは前線を指揮するサアド司令官と緊密な情報と戦術のすり合わせに余念がなかった。
カリフ・ウマルは大将サアド・ブン・アビー・ワッカースに、ヤズデギルド3世との和平交渉に入らせていた。しかしペルシャ皇帝ヤズデギルド3世はあきらめず、首都郊外に大軍を集結し、象部隊まで繰り出して、指揮を歴戦の武将であるロスタムに委ねた。こうして歴史に名を遺すカーディシーヤの戦いが始まる。
戦場となったカーディシーヤは、イラクのユーフラテス川の支流のアティーク川の西岸に位置する小さな町で、プレイスラム期ペルシャ帝国の緩衝国となっていたマナージラの首都のアル・ヒーラが50キロほど西にある。現在のヒッラやクーファの南西に位置している。
一方、大将アブー・ウバイダと軍事的天才の将軍ハーリドが率いる古参兵が投入された東ローマ戦線は、ウマルも満足する進展だった。ヤルムークでの大勝利の後、ウマルは古参兵の部隊をすぐにイラクに送るようにアブー・ウバイダに指示した。派遣された5,000の古参兵は、開戦2日目になってカーディシーヤの戦場に到着し、戦況を一変させることになる。そこで大活躍を見せるのがカウカーウと名乗るタミーム族の将軍であった。
一騎打ちで始まる戦法
一騎打ちの闘将ムバーリズmubaariz、一騎打ちの相手・対抗馬キルンqirn
わが国でも戦はまず名だたる武将が相対する陣営の前に進み出て、「やーやー我こそは何某!」と名乗ってから、相手の同じく名だたる武将と対決して、雌雄を決する。勝利したほうが、俄然活気づいて戦を有利に進めることができた。武将を一人倒したこともまた、相手側の指揮系統を乱したことになるし、その配下にある者を意気消沈させることになる。
西アジアの戦争でもこの「一騎打ち」が陣形の整った開戦の前に、勇者が味方の陣の前に進み出て、相手の武将と戦いあった。ペルシャ軍やビザンツ軍の戦い方も同様であった。この「一騎打ち」はペルシャ語では
一方アラブ世界でも古くプレイスラム期から、部族戦争では「一騎打ち」から開戦が始まった。もちろんガズワghazwahと呼ばれる奇襲戦ではこの風はなかったが、部族を代表する戦い、部族戦(harb)では、相対する部族の勇者が名乗り出て、時には相手部族の勇者を名指して決闘に及んだ。イスラム期に入って、イスラムに敵対する部族が戦に挑んできたとき、その同族出身のムスリムは、名指されても「血の復讐の風習」が生きていたので、預言者や指揮官はその名指された者を「一騎打ち」に出すことを禁じたことは有名な事実となっている。
部族戦争から続く「一騎打ち」の慣行はイスラム期以降も続く。アラビア語ではこうした「一騎打ち」をムバーラザmubaarazahとかビラーズbiraazとかとの用語で読んでいた。またこうした。「一騎打ちをする者・闘将」をムバーリズmubaarizと呼んでいた。ムバーリズの一般的な意味は「決闘者、戦士、チャンピオン」の意味である。「一騎打ちをする者達、一騎打ちを得意とする者達」との複数形はムバーリズーンmubaarizuunとの規則複数形であるが、アラブは複数形を用語化する慣習があるため、後者の方が長たらしいが、普通の用語「一騎打ちをする者」として通っている。
これらの語根動詞barazaは「正体を顕わす、前面に現れる、出現する」である。
その派生動詞baarazaは相手が想定される他動詞であり、「~に対して戦いを挑む、人と決闘する」となる。
言い回しにbaraza ilaa al-qirni fii al-harb「戦場において彼は決闘の対抗者の方に進み出た」がある。ここでは決闘する前なので元型動詞barazaの方が用いられている。
そしてこの派生動詞baarazaから上記の語彙が派生している。「一騎打ち」ムバーラザmubaarazah、ビラーズbiraazはともにその派生動詞の動名詞であり、「一騎打ちをする者」ムバーリズmubaariz(複数はムバーリズーンmubaarizuun)はその能動分子形になるわけである。
一方、「一騎打ちの相手、対抗者、対抗馬」との用語もアラブは持っており、これをキルンqirn(複数はaqraan)という。qirnの元来の意味は「同等者、対等者、競争者」である。こちらの元型動詞はカラナqaranaといい、「二つのものを結合する、連結する、つがわせる、対になる、二つのことを同時に行う、二つの食べ物を一緒に食べる。二つの性質・才能を兼ね備える」など元のものが存在してこそ成り立つ意味合いを持つ。ここでは「並び立つ」とか「双璧」とかから戦場に意味場を持ってきたものといえる。
「一騎打ちをする者達」ムバーリズーンmubaarizuunを地で行った勇者カウカーウをはじめとする古強者どもが、シリアから援軍に駆け付け、カーディシーヤの戦況が不利であった状態から持ち直し、最後には勝利に導くことになる。(続く)