近代シリアの民族主義   アラブナショナリズムの波及

                         「クライシュ族の鷲」「サラディンの鷲」(7)

キーワード:

シリア民族主義  バアス党 アラブの復興・再興(ba"th)、

 思想家ミシェル・アフラク  エジプト革命の大きなインパクト 

活動機関をピラミッド型に組織  地方組織から中央指導部へ

1958年「アラブ連合共和国」を結成  「アラブ連合共和国」の名称

「アラブ共和国」al-Jumhuuriyah al-“Arabiyyahの後に、個々の国名を表示

エジプト主導での「アラブ連合」  バアス党の解散

バアス党強硬派のクーデターにより「アラブ連合共和国」からの離脱

バアス党組織の再建  イラク・バアス党との関係

イラク・バアス党革命政権   シリア・バアス党革命政権

社会主義・共産主義との立ち位置  宗教政策の関与

シリアの国章と「クライシュ族の鷲」、「サラディンの鷲」

「クライシュ族の鷲」が中心   硬貨においては国章として

 

 

 

 シリア民族主義、バアス党

 バアス党はナセル革命よりも早期に,1940年頃から活動が始めている。シリア人のソルボンヌ大学に留学を終えたギリシャ正教徒出身の思想家ミシェル・アフラク(1910年 - 1989年)らによって基本的な政治信条が形成されていった。

アラブの統一、アラブの復興・再興(ba"th)、さらにはアラブ社会主義、イスラム教重視、これらを基本綱領と据える(この綱領のためにも指導者アフラクは率先してイスラムに改宗していたとされる)。

そして第1回の公式の党大会は1947年4月7日にダマスカスで開催された。

当初の参加者は軍の少壮将校や知識人など限られた層で成り立っていた。指導部はミシェル・アフラクを党首として、社会主義者アルスーズィーやホーラーニーが、中央から地方まで活動機関をピラミッド型に組織していった。

時代もそれを迎える時期であったので、次第に影響力を強め、1954年 - 1958年にシリアを本拠にして各地に広まった。宣教活動を通して、イラク・レバノン・ヨルダン・イエメンに党地域指導部ができた。またリビアやカタールとチュニジアにもその動きがあったが、体制派により非合法化されている。各地のバアス党の綱領の違いは社会主義的な政策やイスラムの政教政策をどれほど取り入れるか、が焦点であった。

 

 さらにエジプト革命の大きなインパクトを受けた。1952年のエジプト政変、ナセル革命は隣国シリアにも多大な影響、波及効果を及ぼした。ナセル主義の基本的考えがバアス党とさほど違いがないところから、混乱している党内の派閥の争いや混乱を超越すべく、遂に1958年「アラブ連合共和国」に加わり統一国家となった。これにはバアス党に限らず、シリアのナセル主義信奉者の勢力も大きくかかわっていた。

 

向って左図はミシェル・アフラク(’Michel Aflaq、1910年 - 1989年6月23日)

右図はアラブ連合結成時にナセルと対談するアフラク。インターネット画像より

 

    

「アラブ連合共和国」の名称も統一された。Ittihaad al-Jumhuuriyaat al-“Arabiyyah、「アラブ共和国連合」、分解すれば「アラブ共和国」al-Jumhuuriyah al-“Arabiyyahの複数形であって「諸アラブ共和国」それに前置して「連合」を意味するIttihaadの複合語である。従って直訳すれば「諸アラブ共和国の連合、連邦」であった。

 

そしてこの名称「アラブ連合共和国」Ittihaad al-Jumhuuriyaat al-“Arabiyyahを統一名称として、参加した国はその副名称として、個々の国名を添えた、「アラブ共和国」al-Jumhuuriyah al-“Arabiyyahの後に、個々の国名を表示したわけであった。

シリアならば「シリア・アラブ共和国」al-Jumhuuriyyah  al-"Arabiyyah al-Suuriyyahという風に、またエジプトならば「エジプト・アラブ共和国」al-Jumhuuriyah al-“Arabiyyah al-Misriyyahという風に。統合名「アラブ共和国」を単数形にしてal-Jumhuuriyah al-“Arabiyyahを冒頭に、参加国名を後に配して統一名称としたわけであった。

 

ナセルの存在が大きかったし、また彼個人の政治家の手腕もまた誰もが認めており、推挙されて初代大統領となった。ホーラーニーは副大統領となり、ビータールはアラブ統合の総務担当、後に文化国家指導大臣となった。そしてナセル大統領に強要されて、バアス党はアラブ連合共和国を結成したあとは、党の解散を強いられた。党首のアフラクは一時的措置として、自らの手で解党した。

 

統治権、立法権、行政権もエジプト流儀がシリアにも適用されて、エジプトが主導権を握りシリア側ががそれを協議する、いわばエジプト主導で「アラブ連合」が運営されていった。エジプトの統治方式をシリアにも適用しようとしたわけである。

 

そのためシリアの中では、エジプト主導のエジプト化が進むことになった。これに対してシリアでは、次第に不満が高じて行った。バアス党内部では多くの主導的指導者を抱える中で、反発も生じて意見の相違も表立って見せるようになっていった。

 

こうした動きはバアス党内部だけでなく、軍部や民間有力者、大手の商工業者などにも、このままエジプト化される危惧が高まり、分離的機運が顕著になっていった。ナセル路線に対する見解の対立も明らかになっていった。

 

また若手のバアス党員や地方党員の多くは、党大会の決定無しで解党を決めたアフラクへの非難の声を上げ、バアス党再建に、ハーフィズ・アル=アサド(後に大統領となる)とサラーフ・ジャディードらが、軍事委員会を立ち上げて、党の維持を図った。

 

1960年の党大会では、ジャディードらの軍事委員会の代表が党の再建を要求した。一時的にはアラブ連合共和国の民主化、シリアとの路線修正によってナセルとの関係改善はあったものの、しかし路線の乖離が次第に明らかになった。ホーラーニーなどはシリアの離脱を表立って主張した。

 

こうして1961年6月、バアス党内部の分離派によるクーデターが起こり、成功して「アラブ連合共和国」からの離脱を宣言した。エジプトとのアラブ連合共和国の解消が決まった。またバアス党はピラミッド構造であったから、各地の地域指導部の逸脱が顕在化した。大臣であったビータールもまた離脱は傾いていった。

 

 

    アラブ連合共和国以降、バアス党の再建

「アラブ連合共和国」解体後には暫定的にナーズィム・アル=クドゥシー政権ができたが、バアス党が主導したわけではなかった。解党から再組織化までにはある程度の時間を要した。

1962年、ホムスで第5回党大会が開催されたが、4年ぶりにアフラクが主催した。バアス党内の路線をめぐって、まだ根強いナセル信奉者らなどとは亀裂が入ったままであった。ホーラーニーは招待されず、アフラクに反抗的な活動を行う者、アラブ連合共和国時代にナセル主義者に転じた者なども招かれなかった。

 

アフラクは民族指導部事務総長に再選され、シリア地域のバアス組織の再建を命じた。党大会中に、アフラクと軍事委員会は、ムハンマド・ウムランを通じて、初めてコンタクトを取った。軍事委員会は現政権に対するクーデターの許可を求め、アフラクはそれを支援した。

 

バアス党イラク地域指導部が1963年2月にラマダーン革命を成功させたことを受け、その翌月にかけて軍事委員会はナーズィム・アル=クドゥシー大統領に対するクーデターを急いで準備した。1963年3月8日軍事クーデターを起こし革命を成功させた。

 

こうしてイラクに続いて、シリアにおいてもバアス党政権が成立することになる。革命指導国民評議会(NCRC)が設置され、バアス党員と少数のナセル主義者によって構成された。党員と軍人が主導していった。

 

またバアス党自体、シリアとイラク双方にある党内でも、熾烈な権力闘争が巻き起こり、イスラムの元での宗派を超えての統合も綱領に入っていたのであるが、そこに党員相互のスンナ派、シーア派といった現地の既存の宗派間対立が混じり込んでしまった。

こうした現実的・実利戦略から内部抗争が頻発した事により、アラブ社会全体からは必ずしも支持が得られず、特にシリアではスンナ派はこうした汎アラブ主義に反発する事となった。

 

党の路線をめぐって、同じバアス党でありながら、イラクとシリア・バアス党とは、主導権と正統性を争った。ミシェル・アフラクも1968年からイラクに拠点を移し、路線の違いを新たにした。1989年6月23日アフラクはイラクで客死するが、その影響力は深く浸透していった。その他諸国のバアス党もレバノンを除いては、おおかたシリア路線ではなく、イラク路線を支持する方が多かった。

 

シリアのバアス党は1950年代から共産党との共闘路線を続けており、(アフラク自身若い時は共産主義、マルクス主義者であった)

現在のバッシャール・アル=アサド(ハーフィズ・アル=アサドの息子)政権下でもシリア国民進歩戦線でバアス党主導ではあるが、シリア共産党と連立して入閣させるなどして、友党毎異形にある。

さらにチュニジアでは、2011年のアラブの春の発端ともなるジャスミン革命以後、バアス党が公認されて活動を行っている。

 

宗教政策は難しい課題であって、バアス党においても、現実には宗教と政治を分離するのには困難が伴い、伝統的に宗教の力が強いアラブにおいて発生した汎アラブ主義は、民主的に総選挙をしても、宗教政党の方が多数を占め、そのため政教の分離化は明確にはできていない。

 

シリアでは1973年にハーフィズ・アル=アサド大統領(現大統領の父)はアラウィー派の信者であったが、レバノンのシーア派イスラーム指導者ムーサ・サドルから「アラウィー派はシーア派の分派である」とのファトワーのお墨付きをもらい、シーア派として、多数派のスンニー派信者の国民を指導する危うい立場にあった。それを超克するにも民族主義、汎アラブ主義が強調されるわけであったが、特にムスリム同胞団の台頭は、いずれの政権党にとっても脅威となっていた。この様にイスラームとの距離のおき方は、地域や国によってバアス党の結成以来の懸念材料であった。

 

 

 

    シリアの国章と「クライシュ族の鷲」、「サラディンの鷲」 

エジプトとシリアとのアラブ連合共和国 (1958年 – 1971年) の国章は下図のように「サラディンの鷲」が選ばれた。この頭を右に向け金色の両翼を羽ばたかす鷲、「サラディンの鷲」。その胸に盾を配して白地に星を配する。「サラディンの鷲」、20世紀の汎アラブ主義のシンボルとなった。1958年のシリアとの「アラブ連合共和国」の成立から、胸の盾の三色旗の白地に星二つを加えた。エジプトとシリアとを表す。両国で共に用いられた。

1972年にさらにリビアが連合共和国に加わる。そしてエジプト・シリア・リビアの「アラブ共和国連邦」が成立する。結局は緩やかな連邦で終わったが、左図は当時サラディンの鷲を取り入れたリビア共和国の国章である。三ツ星が盾の白地に入るものも多い。鷲の脚肢が持つ横木には「リビア・アラブ共和国」の文字が読める。アラブ連合共和国以来の統一名を採用している。 

 

また同時に「サラディンの鷲」と共に、「クライシュ族の鷲」も下図のように共に用いられた。「連合国」解体後も民族主義、汎アラブ主義のシンボルとしての意義を持っている。

 

     「クライシュ族の鷲」三様

 

 「クライシュ族の鷲」、向って左からシリアのエジプトとの連合時代のシリア国章。黄金の「クライシュ族の鷲」、鷲の爪の掴んでいる緑の帯状布には「シリア・アラブ共和国」と書かれ、その上には緑のオリーブの枝が左右に伸びている。胸の盾には三色旗を縦にして中央の白地に二つ星を配している。

中央はリビアとの三国連合の時代のシリア国章。翼は銀色に代わる。胸の盾もまた三ツ星に代わる。下の鷲の爪の掴んでいる黄色の帯状布の文字も「シリア共和国」と代わる。その上にはオリーブに代わって黄色の小麦の穂が左右に伸びている。

右はエジプトの1958年シリアとの間に「アラブ連合」Ittihaad al-Jumhuuriyaat al-“Arabiyyah

が成立したときに用いた「クライシュの鷲」の国章。全体の色を抜いて、黄金色に縁取る鷲。その爪の掴んでいる白色の帯状布には「アラブ共和国連合」と書かれ、その上には色を抜いた小麦の穂が左右に伸びている。さらに一番下に「エジプト・アラブ共和国」と記されている。現在でも「サラディンの鷹」と共に用いられている。

 

 

    シリアの切手、硬貨「クライシュ族の鷲」、「サラディンの鷲」

 シリアにおいては、切手に関しては「クライシュ族の鷲」「サラディンの鷲」も共に採用されなかったようだ。しかし硬貨においては国章としての地位をいかんなく発揮して用いられている。

 

シリアの切手は、インターナットで探してみても「サラディンの鷲」や「クライシュ族の鷲」の図柄は無いようだ。以前は現大統領の父親ハーフィズ・アサドの肖像が色を違えて、料金の異なる切手が多かった。下の切手は我が家に残るもの(1960-70年代)では、首都ののダマスカス博物館にある古代遺跡の発掘物から画材として採られたものである。

 

 シリアの「クライシュの鷲」の硬貨

シリア・ポンド(Syrian pound)は、シリアの通貨。現地ではリーラ(リラLiylah)と呼ばれる。通貨の補助単位はピアストル(Qirshキルシュ)と呼ばれる。

 

第一次世界大戦まではこの地域はオスマン帝国領だったため、トルコ・リラが使用されていた。大戦中にイギリスに占領されるとエジプト・ポンドが流通した。大戦後にフランスの委任統治領となるとシリア・ポンドの発行が始まった。その後独立するわけであるが、貨幣単位はリラ(Liyrah)、補助単位キルシュ(Qirsh)は変わらない。

 

 

我が家にあるシリア硬貨。

1リラ硬貨三種。

1ルラ硬貨の表は向って右下のデザインで、全面枯草文様のアラベスクが描かれている。中央を横に割って、真ん中を菱形にしてその中に1と入り右に通貨単位リラ(Liylah)と数字読みワーヒダ(waahidah,waahidの女性形)と配されている。上の縁に沿っては国名シリア・アラブ共和国al-Jumhuuriyyah  al-"Arabiyyah al-Suuriyyahと、下の縁に沿っては鋳造年が向って左に西暦1971年、右にヒジュラ暦1391年と刻まれている。71年はシリアがアラブ連合から離脱した年であるが、裏面が右上であり、鷲の胸の盾には三ツ星があるので離脱以前であろう。

さてウラは三種の、同じクライシュの鷲の国章でも、いずれも微妙に異なっている。

右上が、先に述べたように下の硬貨の裏側であり、面全体をクライシュの鷲像で覆っている。エジプトのクライシュの鷲像とほとんど同じであるが、足元に麦の穂と思しきものを斜め縦に挿入しているところが異なる。脚爪が掴む長布にはal-Jumhuuriyyah  al-"Arabiyyah al-Suuriyyah「シリア・アラブ共和国」と刻まれている。胸の盾には三ツ星が並ぶ。

左下は鷲の胸の盾の中にある星がなくなって無地となっているところから、アラブ連合から離脱以降に鋳造されたものであることが分かる。実際鋳造された年は、西暦1974年、ヒジュラ暦1394年と刻まれ、離脱後13年後の鋳造年と分かる。しかし驚くことに鷲爪の掴む長布の中に書き込まれた国名は、右上のものと全く同じIttihaad al-jumhuuriyaat al-“Arabiyyah「アラブ連合」とされている。

 

アサド記念硬貨

さて左上のおもて面であるが、実は記念硬貨である。うら面が下図のようにシリアの英雄、大統領ハーフィズ・アル=アサドの肖像となっている。おもて面に戻ると、二重丸の中に「クライシュ族の鷲」が収まり、外円の上部にはal-Jumhuuriyyah  al-"Arabiyyah al-Suuriyyah「シリア・アラブ共和国」と、下にはliyrah waahidah(1リラ)と刻まれている。

 

うら面はほぼ同じ比重の二重丸の内円の中に当時大統領であったハーフィズ・アル=アサドの横顔の肖像が描かれている。外円にはクーフィー書体を装飾化した花文字で、上部にはDhikuraa I”aadah Intikhaab(再選記念)とあり、下部にはal-Ra’iis Haafiz al-Asad(ハーフィズ・アル=アサド大統領)とある。中央には年号1978年、ヒジュラ暦1398年と明記されている。

1978年と言えば、エジプトの、ナセルの後を引き継いだサーダート大統領が、反イスラエル路線を転換し、その3月に単独でキャンプ・デービッド合意に調印し、エジプト-イスラエル和平締結された年である。アラブ諸国から総反発を喰らった。かつてアラブの盟主を自認し、中東戦争を先頭で進めたエジプトの離脱は、アラブの連携を崩した。そしてアラブ連盟から締め出され、その本部からも外されチュニスに移された。

シリア自身についていえば、レバノン内紛に関与してレバノン内部に駐留していたのであるが、マロン派の拠点である東ベイルートに砲撃を加えた。そしてイスラエル容認のマロン派の舞台とイスラエルとを相手に戦闘状態に入り、イスラエルの越境を許し、リタニ川以南のレバノン南部を占領させてしまった年である。

こうした中、対イスラエルに対して、エジプトが折れるなか、断固として対抗してアラブの雄となったのがアサド大統領であった。Dhikuraa I”aadah Intikhaab(再選記念)とあるのは、こうした事態が急を告げる時期、何らかの重大な選挙があったのであろう、その勝利を記念したもの。普通の選挙で勝利したぐらいでは記念硬貨を発行するほどではなかろう。

 

 

  50キルシュ硬貨 白銅製

おもて面は中央に花柄アラベスク文様を配し、それに囲まれるように四角が挿入され、金額50キルシュと入っている。四角の下には鋳造年1968年ヒジュラ暦1387年とある。上段の縁にはal-Jumhuuriyyah  al-"Arabiyyah al-Suuriyyah「シリア・アラブ共和国」と、下段の縁には左右に小麦の穂と禾(のぎ)が伸びている。

うら面はクライシュ族の鷲が羽を伸ばし、胸の盾には三ツ星が描かれ、連合国時代を表しており、鷲爪が開く長旗布にはal-Jumhuuriyyah  al-"Arabiyyah al-Suuriyyah「シリア・アラブ共和国」と記されている。

 

なお50キルシュと同じ体裁で、少し小型の25キルシュ硬貨(白銅製)も存在するが、手持ちにない。

 

10キルシュ硬貨

10キルシュ硬貨には二種類あり、後者は記念硬貨とみられる。

 

  1 通常の10キルシュ硬貨 黄銅製

おもて面は文化の香るシリアらしいアラベスク花柄文様が下部を大きく飾る。中央には金額10クルーシュ(キルシュの複数形)が明記され、その両端には囲みで仕切られているがが下のアラベスク文様の主題をそのまま引き継いだ形が描かれている。上部の縁には擦り切れてはるが、al-Jumhuuriyyah  al-"Arabiyyah al-Suuriyyah「シリア・アラブ共和国」と国名が読める。

うら面は「クライシュ族の鷲」が羽ばたく。胸の盾には三ツ星が並ぶ。鷲爪が開く長旗布にはal-Jumhuuriyyah  al-"Arabiyyah al-Suuriyyah「シリア・アラブ共和国」と記されている。

鋳造年が真下にあり1965年、ヒジュラ暦1385年とある。61年にはアラブ連合から脱退しているにもかかわらず、国名を変更しても良いのであろうが、いまだ連合の意思のあることが伝わって来る気がする。 

2 10キルシュ記念硬貨 黄銅製

 

「ユーフラテス・ダム完成記念」硬貨であり、おもて面がその記念画像である。。

シリアでは1975年、水資源の総合開発事業が進行し、ユーフラテス河ラッカ上流に灌漑・発電用のユーフラテス・ダムがソ連の援助で建設された。そしてダムの貯水湖はアサド湖と命名された。この硬貨は翌1976年にそれを記念して発行されたもの。

おもて面には中央に巨大なダム設備とその堰堤から流れ出る豊かなユーフラテスの水流が描かれている。その下にSadd al-Furaat(ユーフラテス・ダム)と、その上には10 Quruush (10キルシュ)と、上部の縁に沿ってはal-Jumhuuriyyah  al-"Arabiyyah al-Suuriyyah「シリア・アラブ共和国」と、「アラブ連合」を結成した時代の国章を引き継いで刻まれている。外円には半分が麦の穂とその先の禾(禾)を伸ばして農業を、半分が機械部品を表しており工業を目指していることが伺える。

うら面には「クライシュの鷲」が羽ばたく。胸の盾には星がなく、アラブ連合解体後を表している。最下部には鋳造年1976年ヒジュラ暦1396年と刻まれているから年代的には当然あるが、、鷲爪が広げる長布にはal-Jumhuuriyyah  al-"Arabiyyah al-Suuriyyah「シリア・アラブ共和国」と記されていることからまだアラブ連合時代の国章や国名を引きずっていることが分かる。