近代エジプト アラブ民族主義の高揚、民族の統一化の象徴

             「クライシュ族の鷲」「サラディンの鷲」(5) 

キーワード

ムハンマド・アリー王朝

最後の王ファールーク  その貨幣

自由将校団  ナセルの登場  「エジプト共和国」(1953-58)

アスワンハイダムの建設   スエズ運河国有化  スエズ紛争(第二次中東戦争)

アラブ民族主義  ナショナリズム  アラブ連合共和国(1958-71)

「クライシュ族の鷲」「サラディンの鷲」の意義・表象

切手や硬貨の「クライシュ族の鷲」「サラディンの鷲」

 

 

     ナセルの登場

1952年クーデターが生じ、旧王制のムハンマド・アリー王朝を革命で倒した。国王ファールークal-Faaruuq al-Awwalは国外に亡命した。自由将校団のナセルの強力なリーダーシップの元、次々と改革を進めてられていった。翌53年国名をal-Mamlakah al-Misriyyah(エジプト王国)から、al-Jumhuuriyah Misr(エジプト共和国)に改名した。

 

幸い我が家にも1960年代のエジプト留学時代のエジプト硬貨が残っていた。その中には革命前の旧王朝の硬貨も二種が見つかった。まだその頃用いられていたのだ。銅貨の方はすり減って文字面を判読し難いところもあったが、すでに硬貨が使われなくなっている時代、その時代を想起するよすがとなって、コインや切手の蒐集癖もこんな分野で役立っている。詳細な分析は専門家に任せて、とりあえず手持ちのあるものだけ、適宜紹介しよう。「クライシュ族の鷲」や「サラディンの鷲」がデザインされているコインや切手を手掛かりに、近代アラブの歴史散歩と行きましょうか。

 

先ず旧王制al-Mamlakah al-Misriyyah(エジプト王国)時代の貴重な古銭二種。同じ10ミリアム硬貨二種である。この時代はまだ「クライシュ族の鷲」「サラディンの鷲」はモチーフとしてはなっていない。

 

エジプトの通貨の単位は大きい方からジュナイハ(Junaihah)通称ギネー、これは外国ではエジプトポンド(LE)と言われる。その下位単位にキルシュ(Qirsh)通称イルシュ、これは外国ではピアストル(pt)と言われる。最小単位はミッリーム(Milliim)の3種であった。ここでは紹介する奥津化の硬貨は、私の1960年代の留学時代もものもあったので、結構な硬貨がまだ用いられていた。

 

ところが私にとっての最近のエジプト旅行は、1999年10月のアブーミナー(Saint Menas)調査であった。その折にはもうすでに硬貨は全く用いられておらず、紙幣がすべてであった。既にミッリームは無くなっていたし、キルシュで最小単位のものも名刺大かそれより少し大きめの紙幣で、価値が上がるほど紙幣の大きさが、大きくなるようなことになってしまっている。硬貨が全く消えてしまったことに驚いた記憶がある。留学時代には1ギネー(ポンド)も出せば、立派なモロッコ皮表紙の装丁本をかえたものであった。

 

 

ムハンマド・アリー王朝(1805-1952年)時代最後の硬貨2枚

      10ミッリーム硬貨 2.2㎝ 白銅製

表:真ん中に10のアラビア数字、すぐ下に小さくmilliimaat、上にal-Mamlakah(王国)、下にal-Misriyyah(エジプト)と、向って右に(ヒジュラ暦)1357(年)、左に1938(年)とある。

裏:真ん中にファールーク(王)のトルコ帽をかぶった横顔の肖像、右にFaaluuq al-Awwal(ファールーク一世)、左にMalik Misr(エジプト王)と刻まれている。

 

 2 10ミッリーム銅貨 2.5cm 12角形

 

表:真ん中に10のアラビア数字、すぐ下に小さくMilliimaat、上にal-Mamlakah(王国)、下にal-Misriyyah(エジプト)と、向って右に(ヒジュラ暦)1362(年)、左に1943(年)とある。

裏:真ん中にファールーク(王)のトルコ帽をかぶった横顔の肖像、右にFaaluuq al-Awwal(ファールーク一世)、左にMalik Misr(エジプト王)と配されている。

 

  コイン専門店で売り出されているファールーク王肖像画の入った20キルシュ硬貨

オークションに出されたもの。向かって左の裏面は我が家のものと変わらないが、軍服姿と若い時代であったことが分かる。右の表面ははるかに芸術的である。中央にal-Mamlakah al-Misriyyah(エジプト王国)と、すぐ下に発行年右に(ヒジュラ暦)1358(年)、左に1939(年)とある。真上には20キルシュのアラビア数字が並び、外周はきれいなロータスの花と実が交互に連続文様で配されている。インターネット画像より。

 

 

   エジプト共和国時代(1953-58)

「エジプト共和国」になって、再び「クライシュ族の鷲」「サラディンの鷲」がよみがえって、現代に至ってもその象徴的意義は継承されている。

ナセルは1952年ナギーブらとともに自由将校団をひきいて王政を倒し、翌53年「エジプト共和国」を樹立する。革命政府は農地改革法などを制定し、社会改革を断行した。1956年からナセルは自ら大統領として実権を握り、後に大統領となるサーダートらと共に、革新的政策を次々に実行していった。

エジプト革命は中東における王制打倒、民族主権の高揚をもたらした最初の社会革命であり、アラブ世界に大きな衝撃を与え、イラク革命などに飛び火していく。そのシンボルである「クライシュ族の鷲」「サラディンの鷲」もまた。

 

先ず革命政府が打ち出したのは、王朝時代から英国の援助によって進められていたアスワンダムの建設を新政府で推進することであった。ナイル川の定期的氾濫の防止と灌漑用水の確保のための重要課題であった。自国だけでは無理なので、後にソヴィエト政府の支援を受けてアスワンハイダムを国家的事業として推進した。

しかし資金不足のため、革命政府が打ち出したのは、スエズ運河の国有化であった。

 

   スエズ運河会社の国有化 とスエズ戦争(第2次中東戦争)

スエズ運河は地中海に面するポートサイド と中途の内陸にあるグレートビター湖とを繋ぎ、紅海の出入り口の港湾都市スエズとの地峡を切り開いて結び、地中海と紅海(スエズ湾)を結ぶ。幸い、地中海と紅海の海面の高さはほとんど変わらず、水平運河である。

 

フランス、次いでイギリスによって事業が展開され、1869年に完成して、スエズ運河会社の営業が開始された。がしかし、その利益はイギリスやフランスの株主に分配され、植民地化されていたエジプト国民には、英国と結託する旧王家以外には、わずかな恩恵をもたらしていただけであった。

 

  ナセル大統領は1956年7 月26日にスエズ運河を国有化してスエズ運河庁へ管理を移管させる宣言を行った。1956年、この年2代目大統領になったナセル大統領のスエズ運河会社国有化宣言は世界を驚かせた。

 

とくにスエズ運河を直接運営していたイギリスおよびフランスは運河会社の支配権や経営権を危うくした。両国はその維持管理の対応に迫られた。急遽、英仏は有利な軍事力でスエズ地帯に侵攻し、またイスラエルを東からエジプトに侵攻させた。スエズ地区を舞台に両者が戦闘に入り、第2次中東戦争(スエズ紛争)が勃発した。

 

 英仏はイスラエルを東から奇襲させシナイ半島を占領、英仏は運河沿いを占拠していった。戦況はエジプトに全く不利であった。が、国際世論がその軍事介入を非難した。アメリカ、ソ連をはじめ、多くの第三世界もまた英仏を非難する声を強くし、その圧力は加わる一方であった。

こうした趨勢に、英仏はスエズ運河の管理をエジプトに委ねることに合意せざるを得なかった。こうしてスエズ紛争は、エジプトにとっては敗戦であったが、国際世論を味方につけて、目的とする実益を勝ち取ったわけである。こうしてナセル大統領はスエズ運河の国有化に成功して、スエズ運河庁へ管理を移管させている。

 

 

          スエズ運河会社国有化記念コイン

   25キルシュ硬貨 3.5㎝(裏の絵図の方をより大きく拡大した) 筆者所蔵

表:真ん中に25のアラビア数字、上にal-Jumhuuriyah Misr (エジプト共和国)、下にQirshと、その下に発行年右に(ヒジュラ暦)1375(年)、左に1956(年)と刻まれている。最下行には有翼太陽が左右の上に向かってのびている。

裏:地中海岸から/への、スエズ運河への出入り口ポートサイードに建設されたスエズ運河会社の全体像。運河に面して、白亜の2層建ての建物。中央に船の航行を監視する五階建ての大きなドーム、その上にエジプトの三色旗、白地の中にはサラディンの鷲の国旗がはためく。建物の両端にも4階の薄青色のドームが配されており左右対称にデザインされている。上部には「スエズ運河会社国有化記念」Tadhkaar Ta’miim Sharikah Qanat al-Suwaysと、下には国有化したした月日(1964年)Yuuliyuu(7月)26(日)と刻まれている。

下図は近年のスエズ運河公社。頂部にはクライシュの鷹が白地の中の配された三色旗の国旗がはためいている。

 

 

  エジプト共和国al-Jumhuuriyah Misr(1953-58)時代の硬貨二種

1 5ミッリーム硬貨 2.1cm 黄銅貨

 

表:真ん中に5のアラビア数字、上にal-Jumhuuriyah Misr(エジプト共和国)、下にMilliimaat (ミッリームの複数形)と、向って右に(ヒジュラ暦)1376(年)、左に1957(年)と刻まれている。

裏:大きくスフィンクスの像が描かれている。

 

2 10ミッリーム硬貨 2.3cm  黄銅貨

表:真ん中に10のアラビア数字、上にal-Jumhuuriyah Misr(エジプト共和国)、下にMilliimaat (ミッリームの複数形)と、向って右に(ヒジュラ暦)1376(年)、左に1957(年)と刻まれている。5ミッリーム硬貨と同年発行されていたことが分かる。

裏:大きくスフィンクスの像が描かれている。これも5ミッリーム硬貨と同じである。

 

 

   アラブ連合共和国の成立 アラブナショナリズムの高揚

 スエズ運河国有化に成功し、スエズ紛争にイギリス・フランス軍に勝利したナセルは、エジプトのみならず、アラブ世界の英雄として、さらには国際的威信を高め、第三勢力の中心人物となり、高い人気を得ることとなった。

そしてその年1958年、国名を改めた。「アラブ連合共和国」al-Jumhuuriyah al-“Arabiyyah al-Muttahidahとして、民族統一、ナショナリズムの旗手として牽引する気概であった。

 

まずは国内問題では、念願であった大事業アスワンハイダムの建設につき進んだ。ソ連や他の国の協力も得て、アスワンハイダムの建設に邁進できた。既に着工され、中断されていた事業を再開し、所期の目標であった第1期工事は1964年5月に完了した。そのアスワンハイダム第1期工事完了はナセル政権の成果として大々的に祝われた。記念硬貨も鋳造された。

 

  アスワンハイダム記念硬貨 25キルシュ、50キルシュコイン、二種 白銅貨

大きい記念硬貨: 向かって右2.8cm、左4.0cm より拡大してある

下段の表:真ん中に25、50のアラビア数字、上にal-Jumhuuriyah al-“Arabiyyah al-Muttahidah (アラブ連合共和国)、下にQirsh と、向って右に(ヒジュラ暦)1384(年)、左に1964(年)と刻まれている。真下には花柄アラベスク文様を配する。

上段の裏:アスワンハイダムの様子が全面的に描かれているその記念硬貨。1964年5月15日に完了した事が分かる。最上部に1964(年)Maayuu(五月)15(日)と刻まれている。中央にはダムの堰堤がそそり立つ。その上にはナセル湖が広がり、両端には陸地ないし古代遺跡が見える。最上部にはそのナセル湖から昇り出ようとする太陽が描かれている。堰堤の下には放出される水流が、そして手前には堰に陸続する大地の上に巨大な鉄塔と送電線が描かれている。「ナイル河貯水ダム第一期工事完了記念」とある。(筆者所蔵)

第2期工事はユネスコなどの大掛かりな協力を得て、ナセル湖の沈んでしまう古代遺跡のアブ・シンベル神殿などの移転作業も含まれ、さらにアスワンハイダムを有名にした。そして1970年6月完成した。

 

 

こうして1970年に新たに建設されたアスワンハイダムは、堤の高さが111 m、堤の全長が3600 mの巨大なロックフィルダムである。アスワンハイダムによって出現した、表面積5250 km2の巨大な人工の湖の名は、ナセル大統領の功績を讃えて「ナセル湖」と命名された。

スエズ戦争の勝利によって国際的威信を高めたナセルは、「アラブの英雄」、第三世界のリーダーの一人としての脚光を浴びることとなる。そして念願であった次の目標につき進んだ。第三世界の雄として、アラブ民族を統一すること、アラブの大同団結を目指して、「アラブ民族主義」を積極的に唱えた。

 

 

私の留学時代の切手からアラブ連合国時代の「サラディンの鷲」が身チーフになっているもの4点(上段は同じもの)があったので、ここに掲載する。

上4枚の切手は「サラディンの鷲」があしらわれた郵便切手。上段は鷲のシンボルを背景に、国の代表的産物のエジプト綿と小麦を配した55ミリアム切手二枚。

下段右は「サラディンの鷲」を中空に浮かせ、エジプトを代表する名所古代の遺跡ピラミッドを配する。左はサラディンが築いたシタデルとその城塞の上に築かれ、カイロ市街が一望できるムハンマド・アリー寺院。いずれも10ミリアム切手。

 

 

  アラブ連合共和国時代の硬貨(1958-71、61年9月にシリアが離脱したが、エジプトは71年までこの名称を用いていた)。この時代のエジプトの硬貨の最大の特徴は裏面に大きく「クライシュ族の鷲」を、またときに「サラディンの鷲」を国章として用いていることである。民族統一および連合国を自ら指導してゆく意図と積極性が覗われる。この国章は連合国時代が終わっても存続するどころか、アラブ諸国に採り入れられてゆく。連合という形ではなく、民族主義、ナショナリズム、自主国家、国家主義のシンボルとして。

 

 

1 5キルシュ硬貨 2.4㎝ 白銅貨

表:真ん中に5のアラビア数字、上にal-Jumhuuriyah al-“Arabiyyah al-Muttahidah (アラブ連合共和国)、下にQuruush (キルシュの複数形)と、向って右に(ヒジュラ暦)1387(年)、左に(西暦)1967(年)と刻まれている。真下には花柄アラベスク文様が配されている。

裏:この時代に初めてコインにおいても、大きく「サラディンの鷲」が描かれ、胸の盾に二つ星(エジプトとシリア)が挿入されている。最下部の足爪が広げて掴む帯布にはal-Jumhuuriyah al-“Arabiyyah al-Muttahidah (アラブ連合共和国)と描かれている。

 

2 10ミッリーム硬貨 2.3cm 黄銅貨

表:真ん中に10のアラビア数字、10の上に小さくMisr(エジプト)と入れてある。上段の縁には大きくal-Jumhuuriyah al-“Arabiyyah al-Muttahidah (アラブ連合共和国)、下にMilliimaat (ミッリームの複数形)と、向って右に(ヒジュラ暦)1380(年)、左に1960(年)と刻まれている。

裏:大きく「サラディンの鷲」が描かれ、胸の盾に二つ星が挿入されている。最下部の足爪が広げて掴む帯布にはal-Jumhuuriyah al-“Arabiyyah al-Muttahidah (アラブ連合共和国)と描かれている。

 

3 10ミッリーム硬貨 2.3cm アルミ青銅貨 

上の同貨のものよりも6年後の同額硬貨であるが、硬貨の質を落としたことによって財政の変化を伺わせる。

表:真ん中に10のアラビア数字、10の上に小さくMisr(エジプト)と入れてあり、最上段の縁には大きく上にal-Jumhuuriyah al-“Arabiyyah al-Muttahidah (アラブ連合共和国)、下にMilliimaat (ミッリームの複数形)と、向って右に(ヒジュラ暦)1386(年)、左に1967(年)と刻まれている。

裏:大きく「サラディンの鷲」が描かれ、胸の盾に二つ星が挿入されている。最下部の足爪が広げて掴む帯布にはal-Jumhuuriyah al-“Arabiyyah al-Muttahidah (アラブ連合共和国)と描かれている。

 

4 5ミッリーム硬貨 2.1cm  黄銅貨

 

表:真ん中に5のアラビア数字、5の上に小さくMisr(エジプト)と入れてある。上段の縁には大きくal-Jumhuuriyah al-“Arabiyyah al-Muttahidah (アラブ連合共和国)、数字の下にMilliimaat (ミッリームの複数形)と、向って右に(ヒジュラ暦)1380(年)、左に1960(年)と刻まれている。3と同年に発行された。

裏:大きく「サラディンの鷲」が描かれ、胸の盾に二つ星が挿入されている。最下部の足爪が広げて掴む帯布にはal-Jumhuuriyah al-“Arabiyyah al-Muttahidah (アラブ連合共和国)と描かれているが、潰れていて判読不能。

 

5 5ミッリーム硬貨 2.1cm アルミ青銅貨

表:真ん中に5のアラビア数字、5の上に小さくMisr(エジプト)と、最上段の縁には大きく上にal-Jumhuuriyah al-“Arabiyyah al-Muttahidah (アラブ連合共和国)、下にMilliimaat (ミッリームの複数形)と、向って右に(ヒジュラ暦)1386(年)、左に1967(年)と刻まれている。上の4と合額貨幣であるが、6年後の発行されたもの。

裏:大きく「サラディンの鷲」が描かれ、胸の盾に二つ星が挿入されている。最下部の足爪が広げて掴む帯布にはal-Jumhuuriyah al-“Arabiyyah al-Muttahidah (アラブ連合共和国)と描かれている。

 

  2ミッリーム硬貨 1.8cm 黄銅貨

表:真ん中に2のアラビア数字、上にMisr(エジプト)、さらに上の縁にはal-Jumhuuriyah al-“Arabiyyah al-Muttahidah (アラブ連合共和国)、下にMilliimaani (ミッリームの双数形)と、向って右に(ヒジュラ暦)1381(年)、左に1962(年)と刻まれている。

裏:大きく「クライシュの鷲」が描かれ、胸の盾に二つ星が挿入されている。最下部の足爪が広げて掴む帯布にはal-Jumhuuriyah al-“Arabiyyah al-Muttahidah (アラブ連合共和国)と描かれている。