サラディンの鷲と十字軍(2)

             クライシュ(族)の鷲、サラディンの鷲(3)

キーワード:

ザンギ―朝と十字軍  ヌールッディーンの戦い   叔父シール・クーフがエジプトへ  

ファーティマ朝宰相として    サラーフッディーン(サラディン)の登場 

 ファーティマ朝を滅亡      アイユーブ朝の誕生

シリアのザンギ―朝を滅ぼす    ヒッティーンの戦い(1187年)

「ヒッティーン」は失地奪回・イスラム回帰の合言葉 

歌「大地がアラビア語を語っている」al-Ardu tatakallamu ”Arabii

1187年10月2日聖都エルサレムを奪回

第3回十字軍  獅子心王リチャードとサラディン  アッコン(アッカ)の戦い

サラディンの鷲  セルジューク朝の紋章双頭の鷲

 

     ザンギ―朝と十字軍

 前回のブログで述べたように十字軍がイスラム世界に侵略をほしいままにする頃、当時のイスラム世界は大きくとらえると、四分五列の状態にあり、有効な対抗策が取れなかった。

精神的・宗教的支柱であるべきカリフを擁する肝腎のアッバース朝自体、有名無実の状態で、実態はセルジューク朝のスルタンに実権を奪われていた。アッバース朝カリフは実権を持たず名目上存在しているだけで、実権はカリフの名のもとに、地方豪族(アタベク)が領土争いをしている様であった。

 

西アジア中心部を広大な領土としていたセルジューク朝(1038~1194)は、第2代スルタンアルプ=アルスラーン(在位1064~1072)、第3代スルターン・マリク・シャー(在位1072~92)の時代全盛期を迎えた。{1071年「マンジケルトの戦い」のことは双頭の鷲と共に稿末の挿絵を参照} しかしそれ以降、セルジューク朝の親子、兄弟、軍部同士の争いによる内紛が続き、主要都市間でも協力関係というよりも、隙あらば乗っ取ってしまおうという状況であった。それ故、急速に求心力を失い、後継者争いに端を発して、有力者は地域的独立をして、内紛状態にあった。

 

その中の分立国、極西の小アジアのルーム・セルジューク朝〔1077~1243〕は成立したばかりで、十字軍の侵攻に対して、対抗するどころか国内通過も抑えられない状態であった。

 

一方エジプト以西にあってシーア派政権を打ち立てていたファーティマ朝〔909-- 1171〕は自国の領土経営を守り維持するのがやっとであった。その支配下にあった聖地エルサレムも、マリク・シャーの時代スンニー派のセルジューク朝に奪われてしまって、スンニー派領に帰し、住民からも歓迎されていた。

 

従って、十字軍によって奪われてしまった聖地エルサレム、それに地中海東部のレバント地方のキリスト教支配に対して、ジハードを宣してイスラームの地への奪回という宗教意識、民族意識の高揚は盛り上がりを見せなかった。

唯一、十字軍に対して対抗したのはセルジューク朝から独立した、モスルおよびアレッポの領有したザンギ―朝(1127-1251)であった。ザンギ―は1127年、セルジューク朝のスルタン・マフムード2世をカリフによる反乱から守った功績を認められ、同年イラク北部の都市モスルの太守に任ぜられた。

 

ザンギ―は翌1128年、シリア・セルジューク朝とアルトゥク朝の領主が相次いで倒れ混乱していたアレッポに入り、アルトゥク朝アタベクのバラクの妻だった女性と結婚し、自らアタベクとなった。以後はシリア南部の中心ダマスカスのブーリー朝と争い、また1144年には十字軍国家エデッサ侯国の都エデッサ(現在のトルコのウルファ)を陥落させた。十字軍国家群の一角を崩したザンギーは一躍イスラム世界の英雄として称えられた。が、ザンギ―は程なく1146年に暗殺されてしまう。

以降ザンギ―朝はその領土が二つに分かれ、二つの首都を持つことになる。元の首都モスルおよびイラク北部は長男サイフッディーン・ガーズィーが継いだ。一方シリアのアレッポとその周辺は次男ヌールッディーンが継いだ。

 

こうしてヌールッディーンは、アレッポに住して、何処よりもフランク十字軍と国境を接して向かい合うことになる。彼もまた父に匹敵する武勇を見せた。彼は早速、エデッサ侯国が奪回していたエデッサの街を落とし、1149年には十字軍国家アンティオキア公国の公爵レーモン・ド・ポワティエを破って殺し、1150年にはユーフラテス川の西に残っていたエデッサ侯国を滅ぼし伯爵ジョスラン2世を捕らえた。さらには1154年、父ザンギーが最後まで手に入れられなかったシリア南部の古都ダマスカスをブーリー朝から奪った。そしてこのダマスカスを新たな首都とすることに成功した。

 

こうしてヌールッディーンはダマスカスを拠点に十字軍と戦う。1160年、アンティオキア公国の公爵ルノー・ド・シャティヨンを捕らえ公国領土の大半を奪った。1160年代、ヌールッディーンはセルジューク朝の分家、アナトリアのルーム・セルジューク朝と抗争する一方、ファーティマ朝エジプトを巡ってエルサレム王国の王アモーリー1世とも戦った。ヌールッディーンがファーティマ朝支援のために派遣したのが臣下の将軍シール・クーフであった。

 

ザンギ―朝のシリア総督であったヌールッディーンは、ファーティマ朝を立て直すべく、エジプトの招致を受け入れた。そして派遣したのがサラディンの叔父シール・クーフであった。彼は参謀としてファーティマ朝の命に従って、処々を平定して軍事活動を行っていた。甥サラディンもエジプトに付き従ってゆき、実力を発揮してゆく。エジプトを狙うエルサレム王国軍を退けて十字軍国家群を圧迫した。

 

 

     サラーフッディーン(サラディン)の登場 

叔父シールクーフはやがてファーティマ朝の宰相になるが、1169年にその叔父が死ぬと、サラディンはその職権と軍権を引継ぐ。ファーティマ朝の宰相にも就任して、軍を統率してエジプト全土を掌握する。実権を十分掌握できたところで、幸運もまた待ち構えていた。1171年にファーティマ朝カリフ・アーディドが、世継ぎを儲けぬまま病没したのだ。

これを好機ととらえたサラディンは一気にファーティマ朝を廃絶させてしまった。ファーティマ朝もカリフを唱えていたので、その王朝の期間はカリフが鼎立していたことになる。東にアッバース朝、西のスペインアンダルシアに後ウマイヤ朝、そしてエジプトにファーティマ朝のカリフが存在していたわけである。

 

そしてサラディンは1173年自らファーティマ朝の支配権を握り、主君ヌールッディーンとの確執があったが、新王朝アイユーブ朝を打ち立てたわけである。主君ヌールッディーンは翌1174年ダマスカスで病没してしまう。主君の死亡により、シリアへの足がかりを掴身。程なく掌中に入れる。

 

英雄サラディン(正式にはサラーフッディーンSalaah al-Diin)はこうして名実ともに歴史の表舞台に主役として登場する。彼の出現により、1171年、エジプトは衰退していたファーティマ朝から新生のアッユーブ朝に代わった。サラディンは長年の副官時代から。知識経験を活かし、有能な指導者手して頭角を現した。エジプトを統一しただけでなく、旧ファーティマ朝の北アフリカ領、ヒジャーズ、半島南端のイエメン領をもまた新たの王朝の支配下に、平定していった。

 

もう少し詳しく述べると、サラディンは先ずエジプトの国内を安定させ、それ以西のチュニジア辺りまでの旧ファーティマ朝の北アフリカ領を平定する。そして旧ファーティマ朝の属領であったシリア南部の治安を戻す。そしてザンギ―朝支配にあったりセルジューク朝支配に戻ったりとしていた地域に、自ら軍をすすめる。そして1174年ダマスカスを平定、1183年北方のもう一つの首都アレッポを平定してシリアの内乱状態を収束させる。この結果、サラディンはシリアのザンギ―朝は滅ぼし、アイユーブ朝の領土を城げることになる。

 

さらにアラビア半島西岸の聖都メッカを含むヒジャーズを、そしてさらに紅海の出口であるティハーマ海岸、イエメン地方をアデンに至るまで平定した。イエメンには西暦1174年から、サラディンの弟トウラーンシャーが派遣され、各地を平定してアッユーブ朝の支配下に組み込んでいった。あのアデンのシャムシヤーン山にあるいくつかのダムも、サラディンのアッユーブ朝によって大幅な改良が加えられたり,新にダム建造の試みがあったとされる。{下図参照}

 

そしていよいよ聖地奪回に本腰を入れることになる。シリアの平定を完全にしてから、拠点をダマスカスに移した。そしてイクター地や軍備などの諸事はエジプトに行政に長け、信頼できる副官に任せた。

そして1187年、異教徒軍、フランク軍、エルサレム侯国と対峙して、5月にクレッソン泉の戦いでテンプル騎士団と聖ヨハネ騎士団を撃破した。そしていよいよ7月に彼の名を高からしめたヒッティーンの戦いが行われた。

 

      ヒッティーンの戦い(1187年)

ヒッティーンには山があり清泉があった。進軍するフランク軍は重装備であって、馬もまたドタバタの重種馬のベルジアンで早い太刀打ちができない。一方きびきびした軽種のアラブ種を騎馬として駆使し、さらに鎧兜も軽装のサラディン軍である。向かいながらのアラブの戦法である。

サラディンはフランク=十字軍の行軍の行く先を、横手や殿(しんがり)を急襲しては引き下がるという戦法を取った。このためフランク軍の進軍は遅れに遅れた。それよりも深刻であったのは、給水や食料にも欠ける破目になることであった。水を絶たれ、既に行軍中に渇水で重種馬や兵士が渇死してゆくものも出ていた。馬自体は、アラブ馬を別にして、渇水にはことに弱い。そこでフランク軍は余りの水の渇れに予定の道を逸れて、丘の上のヒッティーンの水場を求めて進んだわけである。

 

サラディンのこうした砂漠での戦いを知り尽くしていた。フランク軍は海岸沿いを進軍してきたので、内陸や砂漠での進軍には慣れてはおらず、サラディンの誘導にうまく引っ掛かってしまった。

 

ヒッティーンの丘に陣取り、水場で待ち構えるサラディンの包囲網。夏場であり、ただでさえ暑熱が厳しい。さらに風上を利用して野火を放ち、敵兵を一層苦しめた。包囲されたフランク=十字軍は、サラディンの軍に向かって三度絶望的な突撃を敢行したが、いずれも打ち破られてしまった。

サラディンはこのようにしてフランク=十字軍に大勝利を納め、降参した兵も殺すことなく、多くを捕虜とした。敵将のギー・ド・リュジニャンやテンプル騎士団総長ジェラルド・ド・ライドフォートやホスピタル騎士団総長など十字軍の多くの将軍をも捕虜にした。

 

同じく捕虜になったルノー・ド・シャティヨンは、アンティオキア侯国の領主で、「強盗騎士」の悪名を持ち、この十年来休戦条約を犯してイスラム教徒の商人や旅人、巡礼者に対する虐殺を続けており、ルノーによって襲撃され殺害された隊商のなかにはサラディンの姉妹も含まれていたと言われている。ルノーはさらには紅海に船団を出して海賊行為を行い、それでイスラムの聖地マッカを侵そうと試みた事もあった。サラディンはこのルノーだけは許すまいと決めていた。ルノーがサラディンの前に引き出されると、ただちに処刑の命が下された。

 

またこの時、キリスト教徒にとっては重要な聖遺物である聖十字架も奪われた。

およそ3,000人の十字軍兵士は逃れることが許された。一方捕虜になった者の内、富裕な家の者は身代金と交換に解放された。またギー・ド・リュジニャンはサラディンに紳士的な扱いを受け、のちに解放された。

 

                       ヒッティーンの戦勝後、捕虜となった敵将たちを迎えるサラディン。

テント・キャノピーが設けられ、中央にサラディンが座し、隣は十字軍姿であるから敵将のギー・ド・リュジニャン、その隣はルノー・ド・、シャティヨンであろう。サラディンの軍隊が見守る中、武器を前において降参する敵兵たち。その中には右側に僧侶姿の者も何人か見える。一段と高くサラディンの軍旗がはためく、その旗頭には「サラディンの鷲」が林立している。

この直後には、サラディンが喝れていた敵将に水を提供する。氷入りのシャーペット水であった。そのゴブレットを大将ギーに手渡す。ギーは水をある程度飲んでから、そのゴブレットを横のルノーに渡した。ところがルノーに対して、そなたに飲ませるわけにもゆくまい、休戦協定を破り、数々の蛮行とイスラムを侮辱したからには、とサラディン。部下に命じて面前に引き据えさせ、斬首を命じた。インターネット画像より

 

 

ヒッティーンの戦勝後も、サラディンは勢いを得て、フランク・十字軍の領地を奪回してゆく。この後、エルサレムを同年10月までに奪還することに成功した。このとき、サラディンは身代金を払えない捕虜まで放免するという寛大な処置を示している。

こうして十字軍から聖地エルサレムを1187年イスラームのもとに奪回して、西欧にまでその名を知らしめた。サラディンの英雄ぶりと紳士らしさは、十字軍側の残虐な扱いとは対照的に、降伏した相手も丁寧に扱い、帰りの道を財産を伴っての許可を与えるほどであった、と伝えられている。

 

こうして1187年10月2日には聖地エルサレムを陥落させ、エルサレム王国自体の存続を滅亡寸前までに追い込んだ。十字軍の主力を壊滅させたサラーフッディーンは快進撃を続け、9月中旬までにアッコン(アッカ)、ナブルス、ヤッファ、トロン、シドン、ベイルート、アスカロンなどの諸都市を次々と奪還し、サラディンの鷲の旗をひるめかせた。これによりパレスチナの地に建てられた十字軍国家は、いくつかの拠点を除くほとんどが崩壊した。

またヒッティーンでの十字軍の壊滅的な敗北とイスラム勢力による聖地エルサレムの奪回がヨーロッパに伝えられ、第3回十字軍の直接的動機となった。

 

第3回十字軍は獅子心王リチャードとサラディンの攻防がよく知られている。なかでもアッコン(アッカ)の戦いは西欧ではことに有名になった。海に面した厳重な城塞都市アッコン(アッカ)を守るフランク軍、それを包囲して攻めるサラディン軍、さらに海上の艦隊および各地にから派遣されるフランク軍、さらにそれを背後から脅かす新たなサラディンの援軍、と複雑に軍が絡んだ戦いであった。

結局この時はサラディン側の敗北に終わり、休戦協定が結ばれた。(1192年7月)  獅子心王リチャードの勝利は西欧にたちまち広がり、十字軍の第一の英雄に躍り出た。が、リチャードは地元イングランドの不和が高じたために、間もなく帰郷せざるを得なかった。

サラディンもまた翌年ダマスカスで、数々の戦勲を立て、騎士道にのっとった紳士ぶりと敵味方なく称賛されながら病死した(1193年3月)。

 

               上図はサラディンによるアッユーブ朝の領土拡大図。

遠征を繰り返しレヴァントの海岸部に残ったフランク=十字軍のほとんどを追い出し、またシリアやイラクのセルジュークやアターベク諸侯を従属させていった。地中海岸の赤丸は1189年まではフランク・十字軍から奪回できなかった要塞都市。Akkaの内陸部にサラディンが大勝した戦場Hittinの地名も見える。

         H.A.R.Gibb編集Historical Atlas of Muslim Peoples,DJambatan(Amsterdam)p.19

 

     「ヒッティーン」は失地奪回・イスラム回帰の合言葉

こうしたことから、1187年はサラディンの活動を語る諸事項の中でも最も記念すべき年となった。アラブ・イスラム側で初めてのフランク軍と全面衝突が起こり、サラディンが「ヒッティーンの戦い」で勝利したのである。

「ヒッティーンの戦い」は十字軍との会戦では最も有名なものとなり。また「ヒッティーン」という言葉はムスリムにとっては、異教徒との戦闘においての戦勝悲願の言葉となった。またアラブにとっては奪われた領地の奪回を希求する合言葉となっていった。

 

下に訳した「大地がアラビア語を語っている」al-Ardu tatakallamu ”Arabiiの歌は、筆者のエジプト留学時代、イスラエルに奪われた土地を奪回すべく、第4次中東戦争が勃発して、戦時体制のさなかであった。国民的歌手で盲目のウード奏者サッイド・マッカーウィーSayyid al-Makkaawiiによって謳われ、大いなる励みと意欲を聞くものに与えた。エジプトのみか近隣諸国まで流行した歌である。

「大地がアラビア語を語っている」との文句は、敵に蹂躙された土地のうめきが地の底から悲痛をもって地上の人間に訴えているわけである。従って現代では、イスラエルに奪われたヒッティーンの地から「アラビア語を」、「イスラム教を」とりもどしてくれ、パレスチナ・アラブの地に戻してくれ、と訴えている。大地の呻吟や希求が伝わってくる。

          「大地がアラビア語を語っている」al-Ardu tatakallamu ”Arabiiの歌

 

 

            サラディンの鷲

 サラディンに率いるムスリム軍には軍旗「クライシュの鷲」“Uqaab al-Quraysh(またはNasr al-Quraysh)が再び高々と掲げられた。ただし「鷲」の紋章に変化を加えた。鷲の顔を精悍にして、頭頂と羽ばたく両翼の肩羽の高さを等しくして、より大きく見せる工夫がなされている。そして「サラディンの鷲」“Uqaab Salaah al-Diin と呼ばれるようになった。サラディンが異教徒軍と戦うにおいて、その当初からこの紋章を用いられたかは定かではないが、以降もイスラームの領土が危機に陥るたびに、伝統的な「クライシュの鷲」か、この「サラディンの鷲」の紋章が用いられてきた。

 

上図左はサラディンの建てたカイロ郊外のシタデル(城塞)の壁に彫り込まれたいわゆる「サラディンの鷲」。説明書きには「アッユーブ朝(君主)サラーフッディーン アルーアッユ-ビィー」Nasr Salaahu d-Ⅾiin al-Ayyuubii と記されている。建設当時に掘られたものか、後世に彫り込まれたものか、不明。頭部が欠損してしまっているが、一説に双頭の鷲であった可能性もあると言われている。というのも、エジプトにサラディンのアッユーブ朝(1169~1250)の勃興する前、帝国の首都(バグダード)を支配したセルジューク朝(1055~1157)のシンボルは双頭の鷲であった、というのが根拠の一つになっている(右側図)。いずれもネット画像より。

 

このカイロのシタデルの城壁に彫られた「サラディンの鷲」は考古学者や歴史学者の議論の的となっている。鷲のシンボルはもともとサラディン(サラーフ・アッディーン)が建設したカイロの城塞の西壁にあったもので、一般にはこれがサラディン時代、シタデルが築かれた当時のものといわれている。が、後世に彫り込まれたものであろうとの説もある。そして、サラディンが鷲を己のシンボルにしていたという例証はあまり見つかっていない。しかし何時とは知らず英雄「サラディンの鷲」としての通り名となっていった。そこには主君筋に当たるセルジュークの紋章とかかわりがあろう。

  近現代に蘇る「サラディンの鷲」は単頭で両翼を広めた形である。

 

下にセルジューク朝の軍旗の絵を挿入しておいたので参照されたい。

1071年、セルジューク朝がビザンツ帝国軍を破った戦い。マンジケルト(マラーズギルド)はアナトリア(小アジア)東部の現在のトルコとシリア、イラク国境に近くヴァン湖の近郊。1055年にバグダードに入ったセルジューク朝は、さらに西へと勢力を広げ、第2代スルタンのアルプ=アルスラーンは、ビザンツ帝国領の小アジア(アナトリア)に侵入した。1071年、ビザンツ皇帝ロマノフ4世はコンスタンチノープルから大軍を率いて出兵したが、マンジケルトの戦いでマムルーク兵を主力とするセルジューク軍に惨敗し、皇帝は捕虜となってスルタンの前に連れて行かれた。アルプ=アルスラーンの騎乗する馬には双頭の鷲の軍旗がひるがえっている。およそ一世紀後対十字軍に活躍するサラーフッディーンの「サラディンの鷲」もおそらくこの紋章に類似したものであったろう。近代西洋画家の作品。