シリアダチョウ(アラビアダチョウ) について(1)

キーワード:

エリダヌス星座とダチョウ

シリアダチョウ   アラビアダチョウ

アフリカから西アジアへ  岩絵

メソポタミア時代   粘土板  工芸品

古代エジプト時代   パピルス  工芸品

イスラム時代   ラクダの特性、およびそれによるダチョウ狩り

近代アラビア半島  銃と車  アスファルト道

人跡未踏地・秘境の消滅

 

 

 

 

  前回までエリダヌス星座の星々と、その名称について探ってきた。その星固有名に駝鳥との関与の多さの驚かされた。そこで本ブログかダチョウとアラブの関係を少しく述べていきたい。また「星宿・第20宿ナアーイム(亜)al-Na”aa’im駝鳥たちのこと」 2017年01月17日付けブログも参照されたい。

 

 ダチョウそのものを考察とすると、実際アラビア世界に生息していたわけであるから、資料も豊富にあり、纏めるにも相当の時間を要してしまう。従って、ここで筆者が扱うダチョウ文化は、その間に合わせの断片、と理解していただきたい。今までの筆者なりの知見を述べるが、少しはアラブのダチョウ観が垣間見られることと思う。

 

 

 ダチョウは現代でこそ、アラブ世界では見られなくなってしまっているが、絶滅したのはわずか半世紀もたたぬ1960年代とされている。その絶滅年代でもわかる如く、それ以前には時代を遡るほど、生息数は多く、人目に触れる機会も多かった。中東地域には、何万年以前、まだサハラ砂漠やアラビア半島にも降雨があり、ステップ地帯であったころ、アフリカ大陸から大型動物のキリンなどと共にダチョウが移住し、定着していった。古くは北方のシリア砂漠までは駝鳥の生息環境が良好であった。

 

上図はアラビア半島内の方々で見つかっている石器時代のダチョウが描かれている岩絵。左は親鳥が、若や雛を連れて、左方向に歩んでゆくところ。右は三人がかりで馬を駆使しての中央のダチョウを狩るところ。 インターネット画像より

 

アラビア半島は太古の岩絵の宝庫であり、今までは宗教的規制もあって、長らく調査もされてこなかった。近年、そイスラム期以前の歴史、および歴史の全容をを知る上でも、調査の要に迫られて研究が進み、次第に太古の時代が明らかになってきている、

 

 

     メソポタミアのダチョウ

西アジア、中東あたりのダチョウは、亜種と見なされ、「シリアダチョウ」と称された。ダチョウ生息の痕跡は、古くメソポタミアで、また古代エジプトで見られる。

メソポタミアでも下の円筒印章の絵で分かる如く、狩りが行えるほどに大量に生息していたことが知られる。またラクダとか馬とか騎乗しての狩りでなく、人の数と足で捕獲していたことが分かる。双方の絵画資料にはダチョウの親だけでなく、子や雛が描かれていることも、その数の多さや生息状況を示していよう。

 

 

 

また下図はアルサケス朝パルティア王国の王ミトラダテス2世(Mithradates II、在位:紀元前124年/123年頃 - 紀元前88年/87年)時代の見事な卵型装飾品である。

ミトラダテス2世パルティア王国の最盛期の現出し、メソポタミア全域を支配下に置き、アルメニア王国にまで影響力を及ぼした。治安を安定させ、陸上交易が発達し、パルティア王国に富をもたらした。中国ではパルティア王国は安息国として知られ、史書『史記』に記されており、はるばる張騫が表敬訪問した。ミトラダデス2世の支配下、パルティア王国の首都に訪れた張騫一行は手厚く歓迎されて、帰途にはパルティアの使節がダチョウの卵を持ち、奇術師を伴って同行したことが記されている。そのダチョウの卵とは単なる殻ではなく、以下の図に見るような艶やかなまた宝石にも紛うほどの卵型装飾品であったろう。

 牛装飾脚杯 イラン北西部 紀元前12-紀元前11世紀 金製 H-16.5 D-9

このゴブレットの卵形はメソポタミア由来であり、浅浮彫の体に頭が立体的に付けられた牛はイラン南西部エラムの影響が考えられ、象嵌あとや図像の特徴から、これは神聖な牛の表現であったと想像される。その頭部は高度な技術によって接合されており、その技法は未だに明確には解明されていない。古代イラン民族のすぐれた芸術と当時の文化的融合をよく物語っている器であると言える。

またこの容器のそもそもの原型を、紀元前三千年紀のメソポタミアのダチョウの卵殻に象嵌装飾を施した容器に求める見方もあります。ミホミュージアム蔵および解説より。

 

 

 

      古代エジプトのダチョウ

   古代エジプトでもダチョウは豊富にみられた。というよりもダチョウの移動経路からして、バビロニアよりは早期に生息定着したはずであろう。それ故かダチョウを狩猟していただけでなく、家畜化した様子もうかがえる。下の両図とも首輪をされておとなしく飼い主と行進する姿が描かれている。左図ではこの駝鳥の羽根が抜かれたのであろうか。羽毛を失った痩せたダチョウが引き立てられ、手に荷物持つ後ろの人物は、右手に抜いた数本の立派な羽を持ち、左手にはダチョウの卵が入った籠を担いでいる。

右図ではダチョウとカゼルがおとなしく飼い主に引き立てられてゆく。ダチョウの首を高く保つために右手で手綱を引き寄せ、左手でガゼルを制御している。

 

 

 

ダチョウの羽根は大きく豪華であったため、好んで利用された。古代エジプトでは王家の紋章にもなり、髪飾りにもなったり、王家の冠や兜の両脇や前後に付される必需品とされていた。後世、西欧でもダチョウの羽根は同じように王家の紋章や帽子に珍重され気品高さを示すものとなっていた。 

下図右は冥府の王オシリスの頭飾り。両脇に駝鳥の大きな羽根は配されている。オシリスは王として善政を敷いていたが、弟セトの妬みに会い殺される。妃イシスは成長したホルスと共にオシリスを再生させ、以降オシリスは冥界の王となる。ダチョウの羽は、真理の象徴とされた。また死者の魂を量るため、天秤の皿の一方に置かれた。

下図左は古代エジプト神話の正義を表す女神マアト(Ma'at)。マァト、マート、メアートなどとも表記される。ラーの娘とされる。これは、肉親という意味合いより地上を真実の光で照らす太陽の娘というラーからの分化と見られる。女神マアトは頭にダチョウの羽根を指した女性の姿で表される。 

 

 

 

         アラブ・べドウィンとダチョウ

サバンナ気候であったシリア、アラビア半島も徐々に乾燥化してゆき、砂漠地帯が拡大するに伴ってダチョウの生息地帯も狭まり、数もまた減少してゆくことになる。環境要因が大きく影響している。それに輪をかけたのが、ダチョウの減少の原因は、乾燥、砂漠に適応したラクダの存在であった。ラクダはダチョウの好敵手であり、狩られる時は天敵となった。ベドウィンはラクダの特性を生かし、調教し、速度を上げて乗りこなす技を持っていた。それに水への渇れはダチョウ以上に進化適応しており、チョウが逃亡する砂漠の中であっても、ラクダも砂漠を走るのは得意であ、り、負けてはいなかった。

 

  ラクダは普通のヒツジや牛のように放牧飼育されて、単にミルクや乳製品、肉利用、皮革利用されていただけではない。一瘤らくだと二瘤とが異なるのは、寒地適応した毛がふさふさしたずんぐりむっくりした動作の遅い二瘤ラクダにたいして、一瘤はスマートで首も脚が長く、熱く乾燥した砂地に適応した体型に進化した。しかも走力が能力として加わっている。

放牧家畜とする以外に、動力として多様に生かされた。まず荷物を運ぶ、牽引する動力源として、そして人が乗って意のままに進ませることができる乗用動物として。ラクダの乗用利用は途方もなく人間の活動範囲を広げた。人間の居住空間を広げただけにとどまらない。

 

  人間や他の動物ではなし得ない、人跡未踏な、はるか離れた地点をも結び付けたわけである。二日行程、三日行程をかけて渡らねばならない広大な砂漠も、野営と夜旅とを活用して渡り切ってしまう能力である。この能力はラクダのみが可能であり。人間の居住空間であった孤立した町と町、村と村、オアシス間、などをまず点と点をつなぎ、それを常用化して街道ルートとして開拓していったのである。

 

  こうした熱く乾燥した砂地に適応したラクダを駆使して砂漠の中に街道を作り、野営地から宿営地を作り、旅の、交易のルートを常設化したのはべドウィンであった。大砂漠を大海とたとえ、ラクダを舟と例える、まさに「砂漠の舟」となしたのである。

 

  ところが一瘤ラクダには二瘤と異なり、それ以上の能力があり、それを引き出して技能化していったのもベドウィンであった。<走力>である。しかも砂地での走力である。一瘤ラクダはDromedaryと言われる。そのdrome<走る>習性をとらえての命名である。

平地の速度では馬にはかなわないとしても、砂地では馬の硬い蹄は柔らかい砂に足を取られて思うようには走れないのである。柔地、砂地、砂漠でのラクダの走力は、距離を伸ばすほどその威力が出る。おそらく進化適応力はダチョウ以上であったろう。

 

  走力が出るラクダ種は多々あるが、オマーニー(オマーン産)がことに有名であった。のちに王朝が整って主要な町をつなぐ通信使や伝令となる馬やラクダは各宿駅に用意され整備されることになる。が、それ以前から整備されてはいないとはいえ、族長や実力者には伝令としても平地では馬が、砂地や砂漠越えではラクダが傳馬、傳駝として役立てられていたのである。

 

  またベドウィンの間でも、競馬同様に己の自慢の快速ラクダを競争、競駝(Sibaaq al-Hijn)を折に触れ、結婚式や祭礼の折りに催行する風習は古くからあった.

現在でもサウディアラビア、アラブ首長国、バハレーン、カタールなどの湾岸諸国では自分たちのラクダ文化の伝統を絶やさないように、毎年冬に大きな競駝が催される。各地には競駝の飼育場、トレーニングセンター、レース場などが備えられ、冬の本大会のために朝夕に練習、訓練が行われている。大きな大会では、部族代表戦や、首長たちだけの選抜戦、国別対抗戦なども挙行されている。

 

 ダチョウたちは砂地以外では馬を用いての狩猟の、また砂地ではこうした走力あるラクダを用いての狩猟の、その対象となり、それ以前にもまして数を減少していった。

ダチョウ狩りを行っていたのである。しかしまだ馬やラクダを用いての弓矢や槍の狩猟はダチョウにとってはそれほどの痛手とはならなかった。地域は限られていたし、砂漠の奥深く逃走すれば狩られずに済むからである。

 

 

左図は19世紀シリア砂漠での伝統的ダチョウ狩り。シリア砂漠は土漠が多く、地面が固いところも多い。馬の有効利用ができた。何人か手分けして固い地面の方に駝鳥を追い出し、馬で追って弓や槍で仕留める。

右図は自動車の時代に入り、速度で負けない車で近づき素手で捕まえている。ふつうはもっと安全に。近づいたら、重りの付いた長縄を投げたり、首輪を作って投げ輪式に投げたりして、首を確保する。こうすれば殺さずに生きたまま捕えることができる。またパチンコもまた上手で群れから外れようとするヒツジやヤギの方に向けて投げつける。ダチョウに対してもパチンコは使われたことであろう。いずれもインターネット画像より

 

 

 

 

 

     近代以降のアラビアダチョウ

村落や居住地近郊では、野外のダチョウはほとんど目にすることがなくなった。ダチョウの生息地も困難な自然条件に耐えて、縮小の一途を辿った。鉄砲の導入は、遠距離いるダチョウを射止めることができた。また近代以降のダチョウの絶滅ぶりはすさまじくしたのは、自動車と道路の急速な発達と相まって銃の導入であった。

 

アスファルト道路は主要都市間を結ぶため、砂漠の奥であろうと、途中から逸れてダチョウ地帯に向かえば、ダチョウたちは無防備になってしまう。このように一旦自動車道ができてしまうと、どんな人跡無踏の地であろうと、容赦なく鉄砲で野生動物を狩りつくしてしまう。広大なアラビア砂漠もたちまち交通網の中に入ってしまった。自動車も砂地も難なく克服する四駆の登場で砂漠の動物は減少の一途を辿った。

 

砂漠ほどアスファルト道を造成するのに手間のかからないものはない。時間的にも野生動物や貴重種などを保護する機運や余裕を与えずに狩り獲られて、絶滅してしまったのである。シリアダチョウは先ず、シリア砂漠で、そしてアラビア砂漠で、20世紀中葉に存在しなくなってしまった。

 

したがってモータライゼーションする前までは、砂漠およびその周辺のステップ地帯には居住地近くでも散見せられ、ダチョウ狩りが行われていたものである。肉も羽根毛も皮も有効利用されていたことも昔話になってしまった。

 

しかし自動車の時代になっても、その豪華で見栄えの良い羽根は、ターバンの正面や耳上に、自動車の前方の中央やヘッドライト脇、さらにオートバイの前などに飾られていたものであった。1970年代初頭、筆者がエジプト留学時代にも、特にオートバイには誇り高く飾られ、人目に付き、これ見よがしという風な時代でもあったが。かように時代がさかのぼればさかのぼるほど、卵、肉、羽毛、皮革などの、ダチョウの存在感、その居住空間への利用度はより近いものであった。 

 

近代以降のダチョウの絶滅ぶりはすさまじかった。銃の導入と自動車と道路の急速な発達が、砂漠の奥にまで到達してしまう。一旦自動車道ができてしまうと、どんな人跡無踏の地であろうと、容赦なく野生動物を狩りつくしてしまう。近世まであれほど人跡未踏を誇っていた広大なアラビア砂漠もたちまち交通網の中に入ってしまった。この害はダチョウに及ばず、広く砂漠の奥に潜んでいたアイベックスやガゼル類他にも及んだ。

現代ではオマーンやサウディアラビア、UAE(アラブ首長国、バハレーンなどでも絶滅種の復活を目指して自然保護区を設けようとするy語気がある。

 

  次回からダチョウの民族誌をお届けいたします。