麻薬療法バンジュ  傷病の癒し・療法(2―2) 
                                病いと治し、アラブ・イスラムの伝統観(11)

キーワード:
麻薬療法バンジュBanj   バンジュはナス科のヒヨス
バンジュは麻酔・眠り薬が主  向精神作用を利用して麻酔薬
毒性の強度は種の色で区分け 白、赤、黒色の順に強力
原語banjはペルシャ語bankに起源
麻薬バンジュの文学資料
『マカーマート』麻酔薬で眠らせる連中 サーサーン業詐欺・物盗り
73種のサーサーン業種 ハーン(隊商宿)で麻薬を用いて荒稼ぎ
『アラビアンナイト』 ガーニムとクート・クルーブの熱愛物語
クートはバンジュで昏睡させられる


前回の傷病の癒し・療法では麻薬療法として有名なハシーシュを扱った。今回は麻薬療法としてアラブ世界ではポピュラーであったバンジュのことを紹介する。

 

              2 バンジュBanj=ヒヨス
アラブ世界では「麻薬」として、古くからハシーシュと並んでバンジュ banjが知られている。バンジュは学名hyoscyamus nigerで、和名はヒヨスの一種とされる。ナス科の植物で中東を中心にヨーロッパからアジア一円に分布する、が、わが国には自生しない。葉、茎、実ともに乾燥して薬用に、鎮痙剤、鎮痛剤、鎮静剤、催眠剤、麻薬として用いられる。ハシーシュhashiishほど強力ではないが、その毒性の強度は色で区分けされ、白、赤、黒色の順に強力となるとされる。クロロホルム的に嗅がせるのもそうだが、主として麻酔薬、眠り薬として用いられる。

 

バンジュの原語banjは、ペルシャ語bankに起源を持つようで、したがってアラビア語には原型動詞が無い。bannajaという派生動詞形は「バンジュを用いて麻酔をかける」、またその能動分詞形ムバンナジュbubannajは「バンジュ愛好者、バンジュ中毒者、バンジュ製薬者、バンジュ取扱人」などの派生形を持つ。
バンジュは口語ではバングbangとも言われており、西欧語に入ってbang,bhangとも綴られ、名詞で「麻薬、麻薬の注射」、動詞で「麻薬を打つ」、またbang room「麻薬を常用する部屋」など、英語では用いられている。

 

                                    バンジュBanj=ヒヨスの図


 
上図左はヒヨスの全体と部分図。茄子の葉や花に類似しており、右図が種である。その毒性の強度は種の色で区分けされる。

 


バンジュは麻薬として催眠効果だけでなく、医術の方の切開手術などの痛み止めとしても用いられていた。
「ヒヨスは、マンドレイク、ベラドンナ、チョウセンアサガオ等の植物と組み合わせて、その向精神作用を利用して麻酔薬として歴史的に用いられてきた。向精神作用としては、幻視や浮遊感覚がある。ヒヨスの利用は大陸ヨーロッパ、アジア、中東で始まり、中世にはイギリスに伝わった。
ヒヨスには毒性があり、動物なら少量で死に至る。henbaneという英名は1265年まで遡る。語源は定かではないが、"hen"はニワトリという意味ではなく、恐らくもともとは「死」を意味していた。ヒヨスの葉や種子には、ヒヨスチアミン、スコポラミン、その他のトロパン・アルカロイドが含まれている。人間がヒヨスを摂取した時の症状には、幻覚、瞳孔散大、情動不安、肌の紅潮等がある。また人によっては頻脈、痙攣、嘔吐、高血圧、超高熱、運動失調等の症状が表れることもある。」
以上カッコ内の記述、および上の二枚の図はWikipedia からの引用である。


麻薬バンジュに関しても、アラブの中世世界の文学資料の中にいくつか事例が見つかる。ここでは3点挙げて、アラブイスラム文化のこうした分野における具体例を見ておきたい。①はハマザーニーの『マカーマート』から、②はハリーリー作『マカーマート』から、③は『アタビアンナイト』からである。

 

①  ハマザーニーの『マカーマート』より バンジュを用いる窃盗
ハマザーニーは『マカーマート』の中で、30話として「ルサーファのマカーマ」と題して 詐欺・物盗り一覧を羅列している。
アラブ世界ではこうした門付け業、乞食、香具師、的屋、掏(す)り、コソ泥などの集団を古くからサーサーンという特定の用語で呼ばれていた。30話の主題とするのは、サーサーンと括られる詐欺・物盗り・門付け・遊行集団の一覧である。「バンジュを用いる窃盗」もこの中に含まれている。

 

異文化研究を追う学徒には、民衆・大衆社会の材料を提供してくれていて、興味深いものである。しかし一覧なので、原書は文字通りでほとんど説明をしてくれていない。短くて2語、長くて6語くらいで、一つの職種が終わり、次に移っている。

韻を踏むために,強引に対句のセットを作って纏めた風のものも目立ち、訳出での困難さが加わった。サジュウ文体を取りながら、内容を濃くしてゆくのは至難の業である。脚注でサジュウの綻びているところが多くあり、その指摘はしておいた。注釈書を頼りにせねばならない。


とはいえ注釈書は手近にはなく、校訂を行なった近代の覚醒者M.”Abduhの注記を頼った。しかしさすがにこの分野には詳しくはなく、ほとんど注記を行なっておらず、原書よりも幾らか状況把握できるぐらいであった。

仕方なく言語百科事典・レクシコン類を頼りにしたし、アル・ハリーリーの『マカーマート』を訳した経験と、訳者の現地体験からの類推を生かして、筆者なりの説明せざるを得なかった。としてもそれが正確なものか自信は持てるものでは無い。


本話で出てくるカモと訳した原語は、その多くはギッルghirr (pl.aghraar)と言っている。直訳すれば「不注意な、軽率な、経験の無い(者)」であり、加害者側の視点ではなく、被害者側の視点に立っているところが面白い。一口で言えば「騙されやすい」である。

ギッルの語根動詞gharraには「無邪気・未熟・未経験である、」が一方に、「人を欺く、誘惑する」が他方にあり、相関している。他のカモの用語はそのものずばりマフドゥーウmakhduu"「騙された者」である。

 

 

以下このサーサーン業一覧は73種の業種が述べられている。この一つ一つを説明できないので、73種のうち、20番目に麻薬でだます手口が紹介されている。そこでその20番目の個所の前後を記して、少しはサーサーン業の具体例と実態を知って頂くこととしよう。
 
次に⑱錠前荒らしの連中、〔訳注:予め開けやすいものや合鍵のある錠前(qufl)をギッル(カモ)として格好と狙った客に売り渡し、買った先を着き留めておき、人のいない時にその錠前の掛かった蔵や倉庫に入って盗みを働く。〕


次に⑲地下壕掘りの連中、〔訳注:直義は「大地をそこから割る」者。ギッル(カモ)と狙って押し入る邸の外側から外壁を突き抜けた地下壕を掘り、その穴を用いて好適な時間に盗みに入る。〕


次に⑳麻酔薬で眠らせる連中、〔訳注:麻酔薬はここではバンジュbanjと言う。バンジュとはナス科ヒヨスの一種、クロロホルムが製せられる。外科手術などの催眠や鎮痛剤に用いられる。食べ物などに入れてギッル(カモ)となる相手を眠らせ、その間に仕事を行い逃亡する。]


次に21奇術を操る連中、〔訳注:奇術niiranjとは手品に多少の魔術が加わったもの。手品は普通シャアバザsha"badhahと、手品師はムシュイビズmush"ibidhといっている。この奇術と訳したニーランジュは語形態からしてペルシャ起源で外来のものであり、もう少し手の込んだもので、素朴な者や思考力が弱い者などをギッル(カモ)として彼らから、視覚や音を効果的に用いて新奇なトリックで引っかからせて、掏りや替え玉を用いて詐術を行う。〕


次に22履物換えの連中、〔訳注:モスクや集会場で帰り際に、自分のものより良いサンダル(na"l)などの履物にすり替えて履いて行く者。ハンマーム=公衆浴場でもよくある話で、わが国でもお風呂屋でよく生じることは落語のねたにもなっている。〕


次に23両綱使いの連中、〔訳注:直訳は「彼の両綱をきつく結ぶ者」である。何種類かの綱(hablah)を用意し、ギッル(カモ)となる豪邸の屋上やベランダによじ登り、せしめた金品や衣類をそれぞれ分けて結わえ、自分が先に降りて、2種の綱を巧みに操って獲物を後から手許に下ろしてずらかる。〕


次に24武器をちらつかせる連中、〔訳注:「恐喝」、「押し売り」。ギッル(カモ)と狙う者に対して、短刀や剣をちらつかせ、金をせびる。わが国の「胡麻の蝿」に刃物を持たせた物であり、カッターウ・タリーク「道の切断者」と呼ばれる。「武器」はここではサイフsayf(刀剣)が代表している。〕


など、73種のサーサーン業種が列記されている。

さて、こうした詐欺・物盗りのなかでもバンジュ(banj)を利用しての手口が紹介されており、それを利用しての盗みが紹介されている。上記の「⑳麻酔薬で眠らせる連中」の原文はman nawwama bi-l-banjであり、「バンジュを用いて眠らせる者」の意味で、バンジュをギッル(カモ)をあてがい、昏睡状態に陥らせ、その間盗みを働く、こうした盗みの常連も存在したわけである。

 

 

②  アル・ハリーリー作『マカーマート』より 隊商宿での使用
実際、バンジュを麻酔剤として用いて、ハーン(キャラバンサライ、隊商宿)で荒稼ぎする話が、上のハマザーニーの次代、マカーマ文学の大成者ハリーリーに物語化されている。


バンジュを食べ物などに入れて相手を眠らせ、その間にひと仕事を行い、逃亡するわけである。後輩アル・ハリーリーがその『マカーマート』の29話「ワースィトのマカーマ ハーン(隊商宿)で麻薬を用いる」である。ハーンを婚約式の場に仕立て上げ、稼ぎの方法でこれを利用している。麻薬バンジュを用いて参会者すべてを催眠させてしまう。

バンジュを入れた甘菓子を作っておいて、それを参会者に食べさせ眠らせてしまい、隊商宿であるから全員の身体からだけではない、彼らの宿泊する部屋からあらゆる目ぼしい所持品や貴重品、金品すべてを巻き上げ、彼らの乗ってきたラクダに積み、夜中を幸い闇に隠れて逃げおおせる算段の設定である。

致死に至るような重度のではなく、その場でしばらく昏睡状態に陥っていればよい話なので、バンジュを用いたそうした設定に生かされている。そのあたりの原文を以下に記す。主人公(二人称)と語り手(一人称)との対話、語り手も片棒を担がされてしまったのである!

 

するとどうしたこと!瞬きするよりも速い一瞬のうちに、参会者全員がうつ伏せてしまったではないか!一同が引き抜かれたナツメヤシの木々のように(横たわっているのを)見て、あるいは大樽の娘(=酒)に酔い潰された者の如くになっているのを目にした時、私は悟った、これは由々しい事態を引き起こしたに相違ない、先例の母(=前例の無いこと)を仕出かしたに相違ない、と。

そこで長老に抗議した、「何と良心をもてあそぶ人よ、欲の奴隷となる人よ、あなたが皆さんに用意したのは甘いものだったのですか、それとも毒だったのですか?」。「ハランジュ製の皿にバンジュ入りの菓子の盛ったのを用意したに過ぎんよ」との返事。

(仰天した)私は思わず叫んでいた、「星達を輝きとして中天に上げ、それで夜間旅する者すべてを導き給うお方に誓って、あなたは大変なことを仕出かしましたな、恥ずべき行為者の一人として記録されることになりましょう!」と。

そして彼の仕出かした事態の結果を考えると、その瘡(かさ)蓋(ぶた)の感染の及ぼす恐れに思いが及ぶと、言い様の無い不安に駆られた。遂には我が魂が四散して飛び散って、肩の筋肉が恐怖から震えを起こしてしまったのである。
       アル・ハリーリー作『マカーマート』第29話 

             「ワースィトのマカーマ ハーン(隊商宿)で麻薬を用いる」より。


引用文中、「一同が引き抜かれたナツメヤシの木々のように」とは「コーラン」69:7よりの引用。巨人族アード族は驕り高ぶり、神から使わされた預言者フードの布教にも耳を傾けず、それどころか預言者フードを殺そうとした。7夜8日にわたって暴風が吹き荒れ、アード族は「すべてが引き抜かれたナツメヤシの木々のように」大地に打ちのめされていた、預言者フードと僅かな信奉者はアード族の故地を去っていった。
また「ハランジュ製(khalanj)の皿にバンジュ (banj)入りの菓子」のハランジュ製khalanj とは、イラン産の樹木で、容器を作るのに適しており、ジャフナjafnahとかsahfahとかがその製品名として知られており、本文の「皿」と訳したsihaafはsahfahの複数形。

 
                      ハーン(隊商宿)での、相棒の息子と一仕事

バンジュ菓子で昏睡に陥った列席者の金目なものを奪い取り袋に入れ、相棒の息子に手渡す。ハーン(隊商宿)の中庭で参集者がバンジュ麻薬にかけられ眠る中、仕事にかかるアブーザイド。財布や金品を奪い取り、箱に入れ、それを息子に手渡す。地面には6人がそれぞれの格好で眠りこける。背景のハーンが微細に描かれている。地階が倉庫またラクダなど家畜を収容し、二階が宿舎になっており、屋上の平屋根にも昇られる構造が読み取れる。アーチのレンガの石組み、二階のシュルファ(露台)、ダルバジーン(手摺り)、ムシャッバカ(格子組)まで描きこまれている。                                  原画ワーシティー29話6A6

 


隊商宿で麻薬を用いる第29話ワースィトのマカーマをもう少し詳しく述べよう。婚約式の場における稼ぎの方法についてであるが。先ず麻薬バンジュを用いて参会者すべてを催眠させてしまったことである。しかしバンジュを入れた甘菓子を作っておいた記述はあるが、食べさせた記述は無い。長老が説教を始めた頃は参会者は眠っており、婚約式終了後菓子が出され、新郎である語り手がその馳走に手を出そうとした、とある。つまり記述には無いが、参会者が集合したところで、この菓子鉢が回され、全員がその菓子を口にした)と解釈しないと辻褄が合わない。「戸が閉められる頃」と時の設定も巧みで、泊り客のみかハーンの関係者まで参加させ眠らせて、全員の身体と部屋からあらゆる目ぼしい所持品や貴重品を巻き上げ、夜中を幸い闇に隠れて逃げおおせる算段の設定である。
 

③  『アラビアンナイト』より 眠らされて墓の中へ
『アラビアンナイト』には「狂恋の奴隷ガーニム・イブン・アイユーブの物語」(または商人アイユーブとその息子ガーニムおよびその娘フィトナの物語(第36夜 - 第44夜)の話の中にバンジュが登場する。長い物語なので要約に留めるが、前回紹介した「バグダードの漁師ハリーファの話」と筋は類似した物語である。

 

アッバース朝華やかなりし時の、カリフ・ハールーン・アル・ラシードに身辺に生じた出来事として想定されている。シリアのダマスカスにアイユーブという大商人がいた。彼にはガーニムという息子と、その妹フィトナという娘がいた。父アイユーブはガーニムが若いときに亡くなってしまった。父アイユーブはラクダ100荷駄を積んで首都バグダードに出て、商売を続ける刹那であった。息子ガーニムは父の遺志を継いで、遺産を引き受けバグダードに出立した。母と妹はダマスカスの実家に残しておいた。商人仲間とキャラバンを組んで旅を続け、首都についた。
ガーニムはそれに相応しい邸宅を設けて、商売を始めた。ダマス織りは定評があったので、反物は3倍ほどの値段が付き、結構商売は成功を収めていた。
そうしたある日、懇意の商人が亡くなったため、葬儀に参列し、墓場への野辺送り、墓場でのお通夜に参加し、キラーア(クルアーンの読誦)などを神妙に耳に傾けていました。しかし急な用事を思い出して、仲間に辞去を伝え、我が家へ戻ってきた。
ところが折あしく、夜遅く帰ったので市門が閉まって、町中に入れる手段がなくなった。仕方なく門近くの墓場で夜明かしをすることにした。すると3人の黒人が大きな箱を運んで墓場に近づいてきたため、木に登り隠れた。3人は墓場で疲れを癒すため、車座になって己の境遇を話は始めた。二人目まで終わったところで、穴を掘ってその大きな箱を埋めて帰って行った。
ガーニムは木から降りて、その不審な箱を掘り返して開けて見た。すると中には麻酔にかかった高貴な美女が入っておった。箱から出して地面に横たえてやると、美女はくしゃみをした。その折、喉からクレタ島製のバンジュが転げ落ちてきた。昏睡から目覚めたわけである。一目ぼれをしてしまったガーニムはここでの一件を話すと、彼女は事情が呑み込めたようであった。そして夜明けを待ってガーニムはその女を家に連れ帰った。

 

          『アラビアンナイト』平凡社版Ⅲ109の挿画

 

 

この女性の名はクート・クルーブ(心の糧)という教主教王ハールーン・アル・ラシードの側室であり、寵愛を受けていた。しかし王妃ズバイダの嫉みを買い、教主ハールーンが隣国訪問している留守を狙って、クート・クルーブの侍女を呼び、命じた。寝る前にこのバンジュを入れた飲み物を飲むように、と。そして素地通りにするとクート・クルーブは昏睡状態に陥ってしまった。侍女はさらに王妃ズバイダの指示通り、バンジュの丸薬を鼻孔に入れて昏睡状態のまま、箱に入れさせて宦官奴隷には中身は知らせず、郊外の墓地に埋めるようさせられたのだった。しかし彼女の方はガーニムにはこの件も素性を明かさなかった。


そして惚れ合った二人は来る日も来る日も逢瀬を楽しんだが、一線を越えるのはクート・クルーブが許さなかった。そうして大分日が経ってから二人が恋の深みにはまってしまってからのある夜、彼女は、カリフから寵愛を受けている側室のクート・クルーブであることを、已(や)むに已まれず打ち明けたわけである。これを知ったガーニムは恋情ますます燃え上がり恋狂いになっていたのだが、クート・クルーブに体を求めるようなことはしなくなった。


一方教主ハールーン・アッラシードはクート・クルーブが死んだと騙され、嘆き悲しんでいたのであるが、ある日ハレムを訪れ、按摩をしてもらっているうちに眠ってしまった。が、その間に侍女たちのおしゃべりが耳に入り、起き出して聞き質してから、クート・クルーブがまだ生きており、商人の所に匿われている事実を知った。
教王は、さっそく匿っているガーニムがクート・クルーブに手籠めにしているものと思い込み、宰相ジャアファルを指揮官として、兵を送り二人を捕らえようとする。ガーニムはクート・クルーブの助言で卑しい身なりの下男に成り下がって行方をくらます。軍の指揮官にはガーニムは商用でダマスカスに立ち、不在であることを告げた。
教主ハールーンはクート・クルーブを一室に閉じ込める一方、この大商人の邸宅を破壊させたのみか、ダマスカスの太守に文を送り、彼の実家をも破壊して、ガーニムは母と妹フィトナを町から追放するよう命じた。その命令は実行され、実家は破壊され、母と娘は着のみ着のままで放り出された。母娘は仕方なく、ガーニムもいるであろうバグダードに向かった。


ガーニムは追っ手を逃れ歩きに歩いた。身体は疲れ果て身もやつれて、元のさまをとどめぬ状態で、あるモスクに辿り着き、そこでサダカ(喜捨)を受けて、飢えと疲れをしのぎ、かろうじて生きている状態であった。ガーニムがこのモスクでこうした状態にあるとき、偶然にも彼の母と妹が同じくこのモスクを頼って表れた。がガーニムのやせ衰えた姿に気づかず、双方すれ違って、会って確かめることができなかった。

モスクに集まる村人たちはガーニムをバグダードにあるマーリスターン(病院)に連れて行くのがよかろうと衆議一決した。翌日、ラクダ引きを雇って、病人をマーリスターンに運ぶよう頼んだ。ラクダ引きはガーニムを背に括り付けるとバグダードに進み、晩になってマーリスターンに着き、その門の前にガーニムを下ろして引き上げてしまった。

翌朝門の前に人盛りが出来ており、哀れな病人を見物して騒いでいたのであるが、中の一人にスークの取り締まり人がおり、マーリスターンに入れたら、逆に殺されてしまうだろうと言って、自分が面倒を見る、と言って若い衆に自宅に運ばせた。そして妻に十分な面倒を見るように頼み、妻も承諾した。


一方クート・クルーブのほうですが、教主と面会するたびにガーニムとは愛し合ってはいるが、貞節は通しており、性交には及んでいないという事実を真摯に訴え続けた。教主はクート・クルーブの話を聞くうち、寛大な心を開いた。そしてガーニムとの結婚を許すことにした。そしてクート・クルーブがガーニムの行方を捜すことも許した。


クート・クルーブはそこで人の集まるモスク、スーク、集会所などに出かけ、ガーニムという名と姿形を描いては、情報があったら自分の所に来て教えてほしいとサダカ(布施)を出しながら、訪ね歩いたた。そして二日目にあるスークへ出かけ、あの取り締まり人と出会ったわけである。思い当たる彼は小僧をつけて自宅に案内をさせた。あまりに痩せて姿かたちまで変わって、寝伏している男がガーニムとは確信を持てず、眠っている彼をそのままにその日は宮殿に帰った。
翌日になるとクート・クルーブの宮殿に、あの市場取り締まり人が来て、二人の女性を連れてきた。そしてその二人が名乗るところでは、ダマスカスに住んでいたガーニムの母娘というではないか。恋人の肉親とバグダードで初対面となって、両方とも感激を新たにした。翌日、三人は盛装して連れだって、あの市場取り締まり人の館に出かけた。

来訪を告げると、クート・クルーブとの名をはっきり耳にしたガーニムは精気を取り戻し、病床に来た彼女に向かって、名乗り出て、ようやく本人と知れたわけである。女性三人は狂喜のあまり気を失いましたが、やがて仲睦まじく語り合い始めました。クート・クルーブはガーニムと別れて以来、宮殿に連れて行かれた以降の己の顛末をガーニムに話して聞かせた。
クート・クルーブはその後、ガーニムたちを親方の屋敷に残して、親方に十分な報酬を与えたうえで、十分な栄養を取らせたり、風呂に行かせたり、豪華な衣装を揃えたりして、三日間を過ごさせた。そうしてからカリフのお目通りを願い出て許された。迎えには宰相ジャアファルが当たるほど丁重であった。カリフの前に伺候したガーニムは問われるままに、ダマスカスの生家のこと、クート・クルーブとの出会いのこと、その後に身に生じたことどもを語った。

細かな事情を聞き取ったカリフは、自らの非を詫び、クート・クルーブを妻として迎えるよう、またガーニムには俸給を取らせて宮廷に努めるよう、さらに居館をあてがいそこに親子ともども生活できるよう、言い渡した。

さらにガーニムの妹を側室として迎えこことにした。こうしてガーニムとクート・クルーブ夫妻とガーニムの母は同じ館に、妹フィトナはカリフ宮殿のハレムに、カリフの庇護のもと、平安に暮らすことになった。

 

さてこの物語は前回紹介した「バグダードの漁師ハリーファの物語」と類似している。良い比較の材料を提供しているし、分析の対象となりえよう。あるいは漁に出て魚の代わりに物言う猿を獲るなど荒唐無稽さが目立ったが、今回の「狂恋の奴隷ガーニム・イブン・アイユーブの物語」は、ダマスカスの豪商ガーニムとして物語を展開しており、あるいは書き改めたものかとも思わせる。

カリフ・ハールーン・ラシード、寵愛の側室クート・クルーブ、それを嫉妬するあまりカリフの外出中に彼女を亡き者と策略した王妃ズバイダ、その薬に用いられたバンジュ、この辺りは両者に共通するが、今回の方が物語性を豊かにしている。

ダマスカスの豪商ガーニムが首都バグダードに出て成功してゆく中で、クート・クルーブとの出会いと相思相愛になるところ、カリフの側室であることをところから打ち明けられた後の、ガーニムの急転直下の運命の変転、ダマスカスに残してきた母親と妹フィトナとの再会、疑いが晴れてカリフの許しを得て二人が結ばれる大団円となる。「バグダードの漁師ハリーファの物語」にも漁師なりの庶民ぶりを観ることができたが、物語の筋では、その壮大さもはるかにこちらの方が、上出来である。

 

 

 


この物語の副題は「商人アイユーブとその息子ガーニムおよびその娘フィトナの物語」とあるから、原話ではもっと長大な物語であって、本話ではすぐ亡くなってしまう父親の話、さらにはガーニムの妹フィトナはほとんど名前のみの記述でカットあるが、彼女の話も加えられていたものと思われる。
クート・クルーブは二度とも麻薬バンジュで昏睡状態にさせられている。前回はバンジュ入りの菓子を食べさせられて、今回はバンジュを混ぜた飲み物を飲まされて、さらにバンジュの丸薬を鼻孔に入れさせられて。前回は長い木箱に入れられてスークでセリにかけられる。正気に戻ることが前提であったが、今回は棺の形で三人の黒人宦官によって墓地に埋葬される。息を吹き返したところで、地中の棺の中、どうあがいても死が待ち受けるしかない。