ヒムヤル暦月の特徴 ヒムヤルのカレンダー(2)
                     古代南アラビアのヒムヤル暦月(6)
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ヒムヤル暦月の特徴  シバ王国時代にも暦あり  
ヒジュラ暦は完全太陰暦  季節・時節にずれ
太陽暦シリア暦との併用
星ごよみ黄道12宮、月の28宿、恒星暦が頼り

スハイル(カノープス)、シリウス、北斗七星などの恒星暦
アシュラフ暦はシリヤ暦とヒムヤル暦月併記
年初は9月  二カ月をワンセット
すべて月名はDhuu (--の所有者)で統一  前接語ズーdhuuについて


  ヒムヤル暦についてさらに述べるが、前回のブログで「ヒムヤル暦の個々の月の名称と分析」を踏まえているので、そちらに目を通してから、今回のブログ「ヒムヤル暦月の特徴」をお読みいただきたい。

イエメンの暦月はBCの時代、さらにさかのぼれるようである。というのもヒムヤル王国に先立つシバ王国時代にも暦があり、その暦月も知られている。その発掘された碑文などには日付けが明記されていることから、その存在が確認されている。だが、不分明なところが多く、全体像は把握できる段階には来てないようだ。

 後発のヒムヤル暦月も、その暦月体系をも吸収、ないし踏襲したものか、あるいは土着のヒムヤル族の暦師がそれまでのものに改変ないし改良を加えたか、したものであったろう。

 

 前回記したヒムヤル暦月名の中に、既に何らかの農事や牧事に関連づいている名前があったことはすでにその都度言及しておいた。イエメン全体でのものか、地域的な方言的なものか。地域によっては独自の名称はその地固有の暦月名の名残とも受け取れよう。あるいは近隣であったので農産物も同一名であったことも推察される。いずれにせよ毎年の実生活および農牧作業に暦月名の名残りの存在が、未だに生きていること自体、貴重な伝統保持にも繋がり、ヒムヤルの財産ともいえる。

 

 前回のブログで述べたヒムヤル暦月は、少なくともイスラム化する以前の6世紀ごろまでは、イエメンでは暦として公式に使われていたものである。
否、イスラム化されてヒジュラ暦月に移行した後においても、存続した。ヒジュラ暦自体が完全に太陰暦に移行したために、従来通り用いられていた可能性の方が高い。というのも、ヒジュラ暦は閏も持たない完全太陰暦で、一年周期が11日づつずれて行き、季節・時節にずれが生じ、年周期の農牧作業に季節や時期が合わなくなってしまったためである。


従がって他の多くのイスラム諸国が宗教行事や祭事はヒジュラ暦で行っても、周年作業となる農牧業、航海・商用旅行などは太陽暦であるシリア暦を用いざるを得ず、、二重のカレンダーを必要とした。そしてイエメンでもシリア暦が導入されたが、従来のヒムヤル暦も使用されていた可能性も十分ある。さらにはヒムヤル暦を含む「星ごよみ」も有効に機能した。「星ごよみ」を構成する、天体、黄道12宮、月の28宿、スハイル(カノープス)、シリウス、北斗七星などの恒星暦などの出と入り、中天にある時、などが目安とされたし、風雨などの折々の自然現象て成り立つものであり、後年になればなるほど他の太陽暦も含み込んでいった。


実際アラブの星ごよみの資料として用いたアシュラフ暦ではシリヤ暦と並んで、この故郷イエメンのヒムヤル暦月をも月名として併記している。イエメンの現実と伝統、作者アシュラフのイエメン人として誇りと伝統を忘れまいとする気概が感じられる。アシュラフがヒムヤル王国の古都ザファールに近い大都タイッズに居城と定めて、これを作成したため、イエメンの南部の情報が詳しい。しかも先祖イエメンの古代文明ヒムヤル王朝やサバ(シェバ)王朝の文化や伝統、そして暦月まで含みこんで言い及んでいる気概が感じられる。

 

このヒムヤル暦月の名は,農作物の耕種期や収穫期、家畜繁殖の種付けや出産と言った時期に、古来からの暦月が指標とされ、その暦月の名から採られることが結構多い。実生活と如何に密着していたものかが伝わって来よう。

 

古代イエメンのブドウおよびワインの女神。イエメンは今でもブドーおよび干しブドーは名産品である。若い娘姿で、髪の毛を肩まで垂らし、腕輪を付けて寛いで安座する女性像。足元には大きなブドーの葉が左右に二葉、その間に真ん中と左右の両端にブドーの実が配されている。左下から右上に伸びる斜面の仕切りにもブドーの葉と蔓の連続するアラベスク文様が飾られている。上には有翼の獅子頭竜体のキメラが上空を守る。獅子の翼の後にはキューピットが乗っている。いずれもブドーやワイン神との関連があり、その守護をしているのであろう。大理石製(52 cm x 54 cm x 13 cm)で2世紀半ごろの傑作でマアリブで発掘される。現在the Walters Museum of Artに収蔵されている。


 以下に何点かヒムヤル暦月の特徴や特色を記してゆくが、参考のため再度、その暦月を載せておく。
  以下がヒムヤル暦で用いられていた月名の全体である。
10月   ズー・スィラーブ Dhuu Siraab    収穫月  
11月   ズー・ムハル Dhuu Muhal      成熟月
12月   ズー・アール Dhuual-Aal      再帰の月
     ズー・アッワルDhuu al-Awwaal    第一月
1月   ズー・ダウウ Dhuu Da’w       砂漠行の月
2月   ズー・フラル Dhuu al-Hulal      雨雲月
3月   ズー・マウーン Dhuu Ma”uun     水潤う月
4月   ズー・サーバ Dhuu Thaabah      留水月
5月   ズー・マブカル Dhuu Mabkar     早生月
6月   ズー・カイド Dhuu Qayd        熱暑月   
7月   ズー・マズラー Dhuu Madhraa     風選月
8月   ズー・ハラーフ Dhuu Kharaaf     秋の月
9月   ズー・アッラーン Dhuu “Allaan     冬告げ月


               年初について
 一年の初め、年初を何時にするか、何を目安にするかについては、民族によっても違いがあるし、同一民族の中でも、時代によって移行していることも多い。中東・オリエント世界では昼と夜の長さが等分になる分点(春分点、秋分点)のどちらかであり、黄道十二宮の始点が春分であるように、牡羊座・白羊宮の始まりを年初として踏襲したいるところが多い。

 ユダヤ民族とも多くの観念を共有しているアブラハムを祖とする北アラブ諸部族は春分を年初としていた。ところがシバ(シェバ)やヒムヤルの「幸福なるアラビア」を築いていたイエメンや半島南部では、ペルシャと同じく秋の収穫期、秋分点を年初とし、秋分を起点、一年を始まりとしていた。

 イエメン系の南アラブ諸部族の移動と半島内さらに西アジアにアラブ諸部族が拡散し、融合してゆく中で時代が経つうちに、それぞれの地域でさらに再現を難しくしてゆくのは、春分点が現行がそうであるように、三月二一日であることだ。牡羊座・白羊宮も、ご存じのとおり「四月星」と言いながら「三月二一日から四月二〇日」までと面倒な区切りとなっている。牡羊座・白羊宮を起点とするからには、その宮の一か月から「正月・一月」とすべきだとの考え方もあり、そうした違いもあり、アラブ諸部族にもそうした混乱が反映されて見える部分もある。実際には地軸の傾きにより、大分動いているわけだが。


    二カ月をワンセットとして扱う習慣
 ヒムヤル暦月の名称も、アラブ伝統の二カ月をワンセットにして「第1~~」。「第2~~」と把握されていた可能性が大きい。それは各月の説明の中で述べた。

 アラブ民族には暦月を表す場合、二カ月をセットにして、六分法で表す習慣があった。

 

 ヒジュラ暦の月名でもその名残が見られる。3月、4月はラビーウ月「春の月」であって、3月はラビーウ・アッワル(第1春月)、4月はラビーウ・サーニー(第2春月)であった。また5月、6月もセットで、ジュマーダー(水が枯れる、枯渇する)月との名称であった。5月はジュマーダー・ウーラー(第1枯渇月)、6月はジュマーダー・アーヒラ(もう一つの枯渇月)との名称であった。さらに11月12月もセットで、南イエメン系の名称が採用されていた、すなわち連接語の前がズーDhuu「~~の所有者」で統一されている。11月はズー・カアダ「戦やいざこざを起こさず、翌月の大巡礼に備える月、安座月」であり、12月はズー・ヒッジャ「巡礼の所有者、巡礼月」を意味していた。

 

またイスラム期以前は、閏日を設けて太陽太陰暦を採用しており、時節や季節は月の名称と合致していた。ヒジュラ暦も従来と同様な季節に合致した名称を継承したわけであるが、閏制度を廃止したために、全く暦日の想定する意味と合わなくなり、名称のみ残る形となってしまった。

上のヒジュラ暦にもラビーウ月2カ月、ジュマーダー月2カ月、ズー月2カ月で観たように二カ月をワンセットとして扱う習慣は確かに存在した。ヒジュラ暦の「二カ月をワンセットとして扱う習慣」は、すでにいくつかの論文で指摘しておいた。

下で説明しているが、この前接辞Dhuuの表現法こそ南アラビア系の表現形態であり、イスラム化される以前のジャーヒリーヤ時代にこの名称法が半島中央部までに浸透していたことが分かる。
 ヒムヤル暦月の名称も、アラブ伝統の二カ月をワンセットにして「第1~~」。「第2~~」と把握されていた可能性が大きい。
 


       ズーDhuu(~~の所有者)で表す月名
 上で触れた如く、ヒジュラ(イスラム)暦にも11月はズー・カアダ、12月はズー・ヒッジャとDhuu(~~の所有者)の名称が採られている。
 古代南アラビアのヒムヤル暦では、すべて月名はDhuu (~~の所有者)で統一されている。

そこで改めて、すべての月名に付されている前接語ズーdhuuについて説明しておこう


ズーdhuuという語は、連接語を形作る語で、前接語しか用いられない特殊な用語である。南イエメンのヒムヤル文化は、南西アラビア語を用いており、現在のアラビア語が北西アラビア語に系統づけられているように、文字体系が相違していたし、同じアラビア語でも多少の構造的にも、語彙的にも相違を見せていた。


このズーDhuu は「~~の所有者」の意味で、前接語にしか用いられない南アラビア語の特徴であった。北アラビア語ではサーヒブSaahibに当たる語であり、南アラビア語に多く用いられていたものが、次第に北アラビア語への影響力が広がった一例である。単独語としては用いず、連接語として用いた。前接語として、後接語を属格支配して従がえる。


ズーDhuuは、三語根ではなく√dh/wの二語根であるが、よく知られた「父」の語’Abが√’/bと同じ二語根語であって、三語根目が弱文字で補われ、Abuu(父が)と同じように、格変化をする時は補助文字を付加する。

ズーDhuuの方は二語根目が弱文字なので、そこが変化する。

主格はズーDhuuとそのままであるが、対格はDhaa、属格はDhiiとなる。また女性形はザートDhaatとなり、双数形はDhawaan、複数形はDhawuunと規則変化に準じている。

複数は全く別な語形態ウールー‘uuluuという形もとる。指示代名詞haadhaa(これ、近称)やdhaalika(あれ、遠称)、その複数形haa‘ulaa'i<haa‘uuluu(これら)、‘uulaa'ika<‘uuluuka(あれら)の語形態をとる。アラビア語の原初とその後の発展を考えるときの一考を要する語である。