古代南アラビアのヒムヤル暦月(1)

   1 ヒムヤル王朝とその文化

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古代南アラビアのヒムヤル暦月

ヒムヤル王朝とその文化

初期王国ミナー国(マーイン国)BC1300年頃

サバウal-Saba'(シバ、サバとも)の国が興る、BC900年代の初期

マアリブを首都  シバの女王ビルキース

マアリブのダム  ネズミ(モグラの説が有力)の害

ネズミとてヒムヤルの王を溺れさす

               ヒムヤル国,最南西端から興る、紀元前1世紀頃

                 アラブの中のアラブ 南アラブ族

対岸アフリカのアクスム王国  イエメンからの移住の波

ユダヤ教の勢力の存在 キリスト教の導入

元来は天体崇拝を中心とする多神教

最後のヒムヤル王はズー・ヌワースDhū Nuwās(在位487‐525)

王のユダヤ教に改宗  523年ズー・ヌワースのキリスト教徒の弾圧

「ナジュラーンの迫害」

 

 

 古代イエメンは、シェバの女王が代表するように、またローマ人からは「幸福なるアラビア」としての名称で知られていたように、広く内外から憧憬の的であった。

 中世まではイエメンは南アラビア系の本流、アラブの中のアラブの故地と見做されていた。イエメンに行くことを上ると、イエメンから出ることを下ると表されていら。

 

イスラムの勃興よりその様相が変わるが、そのはるか以前に文明が築かれ、農業の発展とマアリブのダムなどの建築技術、乳香・没薬の生産地として、またラクダを駆使して周辺の半島内陸部、沿岸航海でエジプト、エチオピア、シリア、イラク、ペルシャ、さらには大航海も敢行し、海洋交易でインド洋を股にかけ、アフリカ東岸やインド西岸にまで交易を活性化していた。


 イエメンと言っても、単純にヒムヤル王国(BC115~AD525頃)が栄華を誇っていたわけではない。ヒムヤル勃興前にも、また周辺にもまたヒムヤル王国にも負けない文化を花開かせていた王国が幾つもあった。

 

BC450年頃には、南アラビアでは他にもシバ王国の東にある乳香の産地を持つカタバーン国さらに東にはハドラマウト国が繁栄を誇っていた。

 

ヒムヤル王国はヒムヤル族が半島の最南西端アデンを要する地域に誕生して、拡大した王国であった。
またヒムヤル族の祖はトゥッバ族 tubba”というアラブの伝説的部族だといわれる。伝説の域を出ないが、イエメンにヒムヤル王朝の興すはるか以前に、大遠征を敢行し他部族を従えたと伝えられている。東は中央アジアから西はイフリーキッヤ(現チュニジア)に至るまで遠征して、知識経験を積んで、多くの富を築いたと伝えられる。またヒムヤル王の意味で、初期の王名の前に付したものであった。

 

イエメンの歴史はミナー国(マーイン、ミナエアあるいはミネアとも)の出現に始まる。およそBC1300年頃とされている。イエメン北東部に起こり、首都は内陸部マーイン(現ハズムal-Hazm近郊)であった。(下図参照、ハズムはヒズマと記されている)
その後、その南にシバ、正式にはサバウal-Saba'の国が興った。BC900年代の初期と言われる。マアリブを首都に置き、神殿を築いた。その神殿跡『アッワーム宮殿』、より親しまれている名称は「ビルキースの玉座」”Irsh Balqiisとして残っており、神殿跡の発掘も進んでいる。シバの女王はこのビルキースであると言われている。


シバの領地は内陸の交易路の要衝にあり、北部に繋がるルブウハーリー大砂漠にも通じていた。内陸地にありながら、海上交易のルートも確保して、商業の興隆をはかった。(下図参照)

また堰堤も多く作り、灌漑を発達させて、農業を盛んにさせた。その技術の高さは今日でもマアリブのダムの遺構で観ることが出来る。


シバの女王ビルキース伝説で知られるように、シバは繁栄を極め、ミナー国も吸収する勢いであった。およそBC650年頃(BC3世紀説あり)ミナー国は滅亡したとされる。シバ王国の繁栄は、現在でもマアリブの当時のダムの遺跡でその様を見ることが出来、その規模の大きさと技術の素晴らしさを太古の時代に遡って見させてくれる。最近その上流に新たなマアリブダムおよび堰留湖が建設されている。しかしシバの国は、ダムの決壊と共に勢力が衰えて、半島最南西端から興り、次第に北へ精力を伸ばしていった新興のヒムヤル国の支配を受けることになる。およそBC115年頃とされる。

 

マアリブのダムの決壊は、堰に開けられたネズミ(モグラの説が有力)の巣穴によって、次第にその巣穴が拡大され、堰として崩れ去ったと一般には信じられている。

中世の詩人ムハッマド・フワーラズミー(M.ibn “Abbaas al-Khuwaarizmii)は、親しくしていた大臣ムザニー(Abuu al-Qaasim al-Muzanii)が、小者のあらぬ讒言で官憲に逮捕されてしまったことに驚き、以下のように謳った:
   などて驚くや 小鳥が鷹を狩ること
          laa ta”jabuu min saydi sa”wi baajiyaa
      獅子だとて 子羊に狩られること
                            inna l-usuudu tusiidu bi-l-khirfaan 
   ネズミとて ヒムヤルの王を溺れさす
                    qad gharraqat amlaaka Himyar
      蚊だとても ニムロデを殺せしこと
                              ba”uudatun qatalat banii kan”aan
                                       『動物誌』Ⅰp.214
何らかの奇策を用いて、弱者が強者を倒すことも偶々ある。様々な手段もあることだろう。上の二詩行のうち、第一詩行に記される「小鳥が鷹を狩ること」、「獅子だとて 子羊に狩られること」の事例も、想像を言っているのではない。アラブでは知られていた事例があるから、詩句に詠まれたのである。
「ネズミとて ヒムヤルの王を溺れさす」とは古代イエメンの、ヒムヤル王朝(正しくはシバの時代)、マアリブにダムが建設され、農業で王国が繁栄していた。しかしそのダムの決壊によって、水利の管理が不能となり、王は溺れてしまった、とされていることによる。
また最後の「蚊だとても ニムロデを殺せしこと」は、ニムロデはbanii Kan”aanと記されている。バビロニアの時代権力を握っていた一族の名前であり.換言法でニムロデを指し示している。ニムロデは、イスラム時代ではカンアーンKan”aan、すなわち古代のカナン人Canaaniteとみなされていた。蚊に刺されたことが原因で死亡するに至った。

 

マアリブのダムの崩壊によって、シバ人は農業の維持が叶わず、四散した。ヒムヤルの支配にそのまま順ずる者の他にも、牧畜へと生業を換え、半島北部に散って行ったものが多数を占めた、後に雄族となるキンダ族、ガッサーーン族、ラフム族など、特に名高い。

ヒムヤル人に従属して従来の生業を続けるものもいれば、遊牧生活に入らず、農業を他の地域で次ぐけるものも居れば、さらには対岸エチオピアに渡り、そこで現地人と混交して土着化してゆく者もいた。そのダムも一匹のモグラ(アラブではモグラもネズミの一種と観られている)」が土手に巣穴を開けたために崩壊した、こう伝説では語り継がれているわけである。

 

 

上図は起源1世紀頃のアラビア半島の交易ルート。半島最南西端がイエメン。紫色の薄い方がイエメンのほぞ全土を支配していたころのシバ(サバウ)王国であり、小さい濃い方がまだシバ(サバウ)王国に従属していたころのヒムヤル王国。マアリブ中心に交易路が広がっているのが見える。紅海を挟んで対岸アフリカにはアクスム王国があり、イエメンとの交易や干渉が盛んであった。紅海に面する、後にコーフィーの集散地となるモカ(Mukha)はこの当時はムザ(Muza)と呼ばれていた。またこの頃はメッカはマコロバMacorobaとの名であった。    Historical Atlas of the Muslim Peoples,Amsterdam,p.1より。

下図は現代地図に古代地図を入れ込んだものであり、最下にはアデンがあり(赤枠囲み)、その上には横に大きく「アデン保護領」とあるから、近代以降の地図であることが分かる。その地図に古代イエメンの歴史地図を入れ込んである。最上段には最初の王国ミナがマーイン(青色)としてその首都も青線で入れておいた。中央高地の現首都サヌア(赤囲み)の上にサバ(=シバ)と青字で、その右下にサバの首都マーリブが赤線で入れておいた。そして中央にヒムヤルと青文字でなぞっておいた。そのすぐ下ヤリームの町の下に遺跡印の三角点があって、ヒムヤルの首都となるザファールも入っている。前嶋信次著アラビア史、修道社昭和33年p.279より

 

 

一方ヒムヤル王国は、古代アラビアのヒムヤル人がイスラム勃興(ぼっこう)期直前まで存続したイエメンの地域の大分を占める最大の王国となった。最初はイエメンの南西部アデンを含むラヘジュ(Lahj 現存本地図にはラヘージとある)やリダーウ近くに多くの支族に分かれて勢力を張っていた。やがてヒムヤルのもと統一されヒムヤル族の王国を作り上げた。

 ヒムヤル国は最初シバ王国に包含されていた。しかし紀元後1世紀にヒムヤルは勢力を増してシバと連合王国を形成し、連合国家はサバ・ヒムヤル王国と称された。その後両国は再び敵対し、ヒムヤルの勢力が強大になるにしたがって、2世紀末にヒムヤルの首都がザファールZafaar(現Yarimの近郊)に移される。首都ザファールの集権化された、その威光は「ザファールに入る者ヒムヤル語を話すべし」man dakhala Zafaari hammara と言われる程であった。

それ以前のミナ王国もシバ王国もそれぞれ方言を持っており、ヒムヤルも南アラビア語の同系であるがヒムヤル語を持っていた。


交易路も海洋交易もすでにマアリブを経ずして、よりアラビア湾に近く、ヒムヤルの本拠地に近いザファールに移り、また王国の首都となった。ヒムヤル王は、ローマ帝国とも交流を持つに至った。
さらに現在のイエメンの首都サヌア近郊に、当時としては画期的なグムダーン城Ghumdaanを建て、この城は高層で外見も立派だったとされていた。つい最近までその遺構を見ることが出来た。

 

 王国名となったヒムヤルとは、人物名であって、アラブの系譜学において、カフターンQahtaanの4代後のヒムヤルHimyarを祖とする。ヒムヤル族として、南アラビア系の本流、「アラブの中のアラブ」とされる。そして秀でた額と髪型は、ヒムヤルの子孫の中でもガッサーン族によって色濃く継承され、イスラム初期の出来事に関与している。

 

それ故、後にイスラムを興すムハンマドの属する北アラブ系はアドナーン系“Adnaanと称され、アブラハムを祖として、「アラブ化したアラブ」とされていて、歴史的にも対立抗争が見られた。ヒムヤル王国として公に独立したのち、マアリブに代わって、西の高地ザファールに首都を移したのち、統治形態を整え、ヒムヤル族の族長たちを結合して行った。

 ヒムヤルの高官達は、カイルとと呼ばれて、名前も「dhuu、~の所有者(複数形adhwaa’)」を引き継いでいる。名前にDhuu Jadanとか、Dhuu Mulkなど、dhuuを用いるのを好むのは南アラビアの伝統であったからである。後述する暦月名もすべてDhuu で統一されている。


やがて南西アラビアの地域を統一する一方、インド洋と紅海の海上貿易を独占して、当時珍重された没薬(もつやく)、乳香(にゅうこう)、丁子(ちょうじ)、胡椒(こしょう)などの交易で繁栄し、紀元後3世紀ころ全盛を迎えた。対岸のエチオピア交易にも、さらにアフリカ東岸 アザニア(Azania南アフリカと言われるが、実際はザンジバル辺りか)までも交易圏を広げたといわれている(EI¹310)。

 

4世紀に入ると、ヒムヤル王国の北部は大分情勢が変わっていた。イエメン北部やナジュラーンにはユダヤ教の勢力が築かれ始め、そこに新たなキリスト教の布教と教会建設とが始まった。それは時に紛争化する事態にも至った。このため、キリスト教徒を保護するため、対岸のアビシニアから救援の使節団が到来して対処して布教を武力で支えることもあった。


キリスト教の素地ができたところで、340年頃エチオピアのアクスム王国は軍隊を送り、弱体化したヒムヤル国に侵入して、多くのイエメン領土を侵略した。このため一時壊滅状態に陥った。特に北部を占拠してキリスト教を定着させる。


エチオピアには古くからアラブ諸部族が幾つかの波を作って移住して、現地人と混交していた。シバ王国の滅亡においても、その移住の波があった。アクスム王国の初代王メネリクMenelikはシバの女王がソロモン王との間に産まれた子である、という言い伝えが古くから存在する。首都が紅海よりのアクスムに置かれており、アクスム王国とも呼ばれていた。そして紅海沿岸伝いにローマ帝国およびエジプトの影響を受けキリスト教化が進んでいった。また対岸のイエメンに対しては、そこの出身者も多いため、絶えず交流があり、イエメン情勢に対しても状況把握に敏感であった。


こうしてヒムヤル王国の北部は、4世紀の一時期アビシニアの最初の大規模侵略を被って、王国は危機に瀕したが、まもなくその主権をも回復した。それゆえ、その後を第二ヒムヤル王国ともいう。旧来の宗教は後に述べるが、月神、太陽神、諸惑星神、さらには星座神まであり、天体崇拝の多神教であった。が、キリスト教、ユダヤ教が広まって以降、一神教信仰も広まって、宗教紛争が起こり、アビシニアの干渉を受けるようになった。

 

イエメンにおけるユダヤ教の勢力は6世紀初頭に以前にもまして強固のものとなる。それが元で、ユダヤ教の隆盛は同地に住むキリスト教徒への圧迫、およびアクスムへの援助要請へと、対立が深まって行く。ヒムヤルとアクスムとの緊張関係は、さらにインド洋や紅海の交易活動の中でも紛争が起こり、武力衝突が生ずることもあった。アクスム側は517年にイエメン北部に派兵し、この年以降両国の関係悪化、および貿易摩擦が度を深めていった。


 そして最後のヒムヤル王はズー・ヌワースDhū Nuwās(在位487‐525)であった。王はユダヤ教に改宗して、キリスト教徒を迫害した。そして523年ズー・ヌワースのキリスト教徒の弾圧はその度が増して、その10月、ナジュラーンで、ユダヤ教護持を掲げてズー・ヌワースによるキリスト教徒の虐殺が起きる。「ナジュラーンの迫害」」として知られる。ナジュラーンの迫害は、各地に波及し、それぞれの地域でキリスト教徒への攻撃が起きる。


現地の情報はアビシニアのアクスム王カレブ・アスバハKaleb Ela Asbahaのもとに伝えられ、アビシニア軍をエチオピアから派遣して、キリスト教徒を開放すべく動いた。ビザンティン皇帝からの援助と要請をも受け、イエメンにふたたび象を連れて侵略を行なった。525年春にアクスムのヒムヤル遠征が開始された。


この一連の戦いでヒムヤル朝軍はアクスム軍に敗れて行き、ヒムヤル王国の王将ズー・ヌワースはここまでとばかり、海中に飛び込んで自害した。そしてこの年ヒムヤル王国は滅亡してしまった。イスラム教が勃興するおよそ100年前のことであった。

しばらくアクスム王朝に時代が続く。