シャアバーン月(イスラム暦8月)
  

         イスラム暦第8の月 シャアバーンSha”baan

イスラム世界では、この4月27日より新たな月シャアバーンSha”baan に入り、このことに関しては、先の4月第4スブウのブログで「イスラム暦では、先月29日にから第7の月ラジャブ月に入っており、4月26日に29日目で終わるので「小の月」である。翌27日より、新たな第8の月シャアバーンal-Sha"baan月に入る。このシャアバーンについてもいずれ述べよう」と記しておいた。ここでイスラム暦のシャアバーンについて述べておこう。

 

 シャアバーンSha”baan月とは完全な陰暦を採用しているイスラム暦の第八の月にあたり、聖月とされるラジャブ月および断食月とされるラマダーン月とにはさまれた月である。イスラム期以前、7月と8月は、二か月づつが共通名で呼ばれるアラブの慣習から、「二つのラジャブ月」のいみでラジャバーンRajabaanとの言い回しをされていた。この7月と8月とを一緒に括った双数表現である。7月が第一ラジャブ(Rajab al-Awwal)、8月が第2ラジャブ(Rajab al-Thaanii)であった。
しかしラジャブを聖月として特に重視する部族や集団では、8月は全く別の名称シャアバーンSha”baanと区別するようになり、次第にシャアバーンと呼ばれるようになって一般化していった。ラジャブはプレイスラム期では「聖なる月」とされており、それは7月に限られている。このことから、8月は「第2ラジャブ」とするのも、「もう一つのラジャブRajab al-Aakhir」とするのも、この8月に入ってもラジャブの<神聖さ>を意識せざるを得ない。そのためこうした月の名前は不適切であるので、別の固有名シャアバーンとして通されることになる。

 

かくて第八の月として、シャアバーンSha”baanとしての月名が共有されるわけであるが、こうしてイスラム教が勃興する直前には、シャアバーンは夏季の八月として定着していた。アラビアでは閏月をおいていたので、月名が時節や事象、その折の出来事に合致した意味を持っていた。
しかしイスラム期以降は、同じ月名を継承しながらも、閏が配された。そのため時節と月名、およびその由来とが合わなくなってしまった。毎年11日づつ短い完全太陰暦になってしまったのである。シャアバーンにしても「八月」としてしまうと、熱さが連想される夏季の「八月」が連想されてしまうので、「第八の月」と呼ばざるを得ないような状況に陥っている。従って農事や牧事、漁事、航海や陸旅では、太陽暦を用いているエジプトのコプト暦か、ビザンチンの伝統を継ぐシリア暦を借用するか、もっと伝統的には黄道十二宮、それをさらに細分した「月の二十八宿」、さらに主たる恒星、カノープス(Suhayl)暦、シリウス(Shi”laa)暦、スバル暦、北斗七星暦などの年周期を星暦として、時期に叶った暦として頼りとしていたのである。

 

上のスケッチは1982年2月、イエメン南部の主邑タイッズでの路地での一コマ。タイッズから紅海岸のかつてのコーヒー輸出港モカまでバスが通じている。帰りのバス停からホテルへの帰路、坂ノ途中の路地に寺子屋教室が開かれていた。モスクや廟、集会場などで開いても良いのであるが、声を出しての学習であるため、瞑想にふけり、また学習に集中する人々に配慮して、こうしたところが好んで選ばれる。先生を囲んで、読み書きの指導を受ける、伝統的アラブの寺子屋スタイル教育である。

 

     シャアバーンの語義
 ではシャアバーンとはどのような語源と、どのような語義を持つのであろうか。原語のSha‛bānとは、「離れる、分離する」という語根動詞√sha‛abaの、一時性を示す形容詞(二段変化)の形であり、従って「(部族などの自己が属する集団から一時的に)離れている、分散している」の意味である。この「離れている、分散している」由来は、いくつかある。その諸説のうち4つを紹介しておこう:


① ジャーヒリーヤ時代(イスラム期以前の時代)には、この月になると遊牧民達は、部族全体から少数団を作って水場や牧草地を求めて四散してゆくのが習慣であった、ことに拠るとされている。この習慣を反映する言い回しとしてtasha‛aabuu fi talab al-miyāh「彼らは水を求めて分散して行った」がある。シャアバーンと語根を同じくするシャアブ(sha‛b)は現代語では「人々、庶民、国民」の意味で広く用いられているが、もとを直せば、上述の内容の反映した「人々の分離した一団、分れた一団」の意味で、〈部族〉を表示するカビーラ、(qabilah)を構成するもの、即ちカビーラの下位分類ということになる。


② シャアバーンが「(部族集団から一時的に)離れている、分散している」の意味に関しては、他にも、語義は第一説と同じたとしながらも「離れる、分離する」のは、当時日常的できごとであった部族闘争でのガズワ(ghazwah)およびガーラ(ghārah)として知られる「襲撃」に出かけるためだ、としている説である。シャアバーン月の前の月、ラジャブは聖なる月であって、その月の間は、戦闘はもちろん、剣をその鞘から抜き放ってもいけない、とされる月であった。そのため、ラジャブ月の間は戦闘の際の雄叫びや剣のかち合う音がいっさい聞こえてこないため、アサンム(asamm)の月、即ち「つんぼ月」とも呼ばれていた。この「つんぼ月」が終った翌月がシャアバーンに当り、戦闘や略奪が再開されるわけであったから、この説も十分な根拠を備えていることになる。Tasha“abuu fii al-ghaaraatとう言い回しもあり、それは「彼らは襲撃をするために分離していった」の意味だが、このシャアバーン月と関連して用いられる言い回しでもあった。


③ またSha”baanと名付けられたのは、この時期には植物もまた暑さに耐えるほどになり、枝葉が「離れてゆく、分散してゆく」すなわち「枝葉を分枝する」するからである、との説もある。


④ またシャアバーンは、他の説ではシャアバという語根には「(物事が)顕われる」の義があるところから、「(中に割って入り)顕われる」の意味だとしている。そしてその由来は、冒頭に述べたようにそれぞれ重要な意義あるいは行事を持つラジャブ月とラマダーン月との間に「割って顕われる月」であるから、と説いている。

 

 ジャーヒリーヤ(プレイスラム)時代の暦は、元来は二カ月単位六ヶ月であったこと、また十二か月分離した月となり、そのそれぞれの月名はイスラム暦にも踏襲されたこと、および太陽太陰暦であったこと、などが特徴として挙がろう。


イスラム暦の月々が完全な太陰暦を採ったために、なおかつ月名は以前のものを踏襲したために、毎年太陽暦との間に十一日程のずれができてしまって、季節感とマッチしなくなっているのは周知のことである。しかしイスラム期以前の、ジャーヒリーヤ時代の暦は、閏を入れた太陽太陰暦であった。即ち、閏月を設定して季節に合致するよう配慮された暦を採用していた。太陰暦では毎年十一日程度季節がずれることから、近隣の太陽暦やもっと身近には、黄道12宮、月の28宿、他の恒星の出現、中天、星没を頼りにしながら、通常三年に一度(稀に二年に一度)閏月を設けて、そのずれを防いでいたのである。それ故イスラム期以前のアラビア社会の月の名称と季節感とは合致していたことは留意しておかねばならない。

 

      シャアバーンの時節

 アラビア暦のシャアバーンは、気候的に六月から七月にかけて、その中に「夏至」が含まれる月であった。これに対して一月に当るムハッラ月が冬の最盛期である(太陽暦の)十一月中旬から十二月中旬に当り、冬至を中心とする。
従ってシャアバーン月は、暑い盛りを迎えた時期で、四季の中ではサイフ(sayf)「夏」の最初に分類されていた。この「夏」の呼称も、更に古くは(サイフは「春」を意味していたために)、カイズ(qaiz)といった。現今では、夏のうちでも最も暑い時期をカイズといっている。


 アラビア半島の現在の気候では、この時期に雨が降るなどとはとても考えられない。アラビア半島は最南端を除けば、砂嵐の収まる四月下旬から五月以降というもの、空には雲一つ出ないため、雨などとても想像もつかない。しかしイスラム期以前は、おそらく乾燥化の過程にあったのであろう、現今とは気候もかなり違っていたようで、降雨があったことは確かなようである。ダチョウやライオンが生息していたことも確かである。

というのも四季とは別に一年を「六雨季」に分ける概念があり、その中のシャアバーン月を含む、夏季に降る雨のことをハミーム(hamiim)と言っていたことが知られていたからだ。ハミームは英語ではmid-summer rainという訳が付されている。(例えば、Hava:Arabic-English Dictionary)。「最も暑い時期に降る雨」であって、空気も大地も相当に熱せられているために、「熱い雨」となって降ることもあったらしい。前月のラジャブ月の雨も、よく詩歌に謳われ、寒さとか寒風といった形容と共に多く用いられている。前月まで寒さも残存し、しかも降雨があるということは雲もけっこう出ていたことになるので、シャアバーン月は現在の六、七月の頃の猛暑ほどの暑さはなかったように思われる。

 

  シャアバーン月の異称
 ラジャブ月が(アル・)アサンム「つんぼ月」と呼ばれたように、シャアバーン月も異称を持っていた。アーズィル(‘ādhil)がそれで「(お互いに)非難し合う。責任をなすりつけるもの」の意味である。この由来を示すいくつかの言い回しは以下に示すようにあるが、そのいずれもが「日」の積み重ねの時として示されている:
① 「責め合いの日々」 Ayyām‘Udhl とは、この時期の猛烈に暑い一日、一日(擬人化されている)が、「私の方があんたより暑いよ、どうしてあんたの暑さが私のと同じだと言えるのかね」と責め合うことから、「強烈に熱い日々」の換喩とされている。
② 「来る日も来る日も非難し合う」  I‘tadhala Yawmu-nāとは、その怠慢さから暑くするのをそれまでゆるめていた「日」(擬人化)が、それまでの態度を自ら非難し合って、「まだ足りない、まだ足りない」と急にそれを埋め合わせるように暑さを加えることをいう。即ち「昨日よりはすごく暑くなったなぁ」と言わしめるほどになること。
③ 「スハイル星の非難者達」 Mu‘tadhilāt Suhayl とは、スハイル星の出現が秋の到来を告げる指標となっていることから、スハイルが待ち遠しいのである。スハイルはまだか、今日もまだなのか、と出現が待たれることになり、ついつい不平も出て、ぐずぐずしているスハイル星にあて付けかましく非難することになることを言っている。

 これらの言い回しから明らかなようにシャアバーンの異称アーズィルは「その暑さを競い合い、責め合う日々(擬人化)を持つ一ヶ月間」の謂であることが分る。


 アーズィルに関して、更に留意すべきは、実はこの異称は別の暦法による八ヶ月目の呼称であったことだ。このアーズィルがシャアバーンと呼応するように、先にラジャブ月の異称として紹介したアル・アサンム(つんぼ月)も実は異称なのではなく、この別体系の暦月で七ヶ月目、即ちラジャブ月に呼応していた(ないしはその古名)なのである。

そしてこれらシャアバーンの異称は、太古からのアラブ・アード族の伝統や遺産の継承であることは、以下の記述で証明されよう。

 

 古代アラブ・アード族では8月はアーズィル”Aadhil(pl.“Awaadhil)と呼ばれた。「非難するもの、叱責するもの、咎め立てするもの」の意味であるが、どうやら最も熱い時期なので、やりきれなくてつい相手を詰ってしまうかららしい。同語根の派生形ウズル"udhulは「暑い日々」と、さらにムウタズィラートMu”tadhiraatと言うと「最も熱い日々、酷暑の日々」との意味となる。いずれも形容詞形でアッヤーム(日々)が前接している前提である。「私がこんなに暑がっているのに、なんであんたはそんなでも無いんだ」とその糞暑さに思わず相手に文句の一つも出る、あるいは自らを責める。そういうことから、8月がアーズィル”Aadhil「非難するもの、叱責するもの、咎め立てするもの」の擬人的意味合いで使われたらしい。この糞暑さに終わりを告げさせるのも、またしても吉星スハイル(カノプス)である。ムウタズィラート・スハイルMu”tadhiraat Suhailと言われ、直訳は「スハイルの(出現で終わる)ムウタズィラート(最も熱い日々、酷暑の日々)」の意味合いを込めて、指南星であり、秋告げ星の東に上るのが待ち焦がれるのである。

 

       イスラム期以降のシャアバーン
 イスラム教徒は、この月は断食するのが良いとされている。預言者マホメットはラマダーン月の他に、この月にも想定外の断食を行っていたことが知られている。そしてこの断食は贖罪の意味を持つとされている。というのはシャアバーン月の十五日の夜(我々の暦では十四日の夜)、人間のそれぞれの名が記されている葉を実らせている天国の生命の木が震動を受ける。そして揺すられて落ちる葉に記された名前の人物が、翌年死ぬ運命にある。また新芽は新たに生まれて来る子だとされている、という民間信仰を踏まえているためである。ハディースによれば、この夜アッラーは翌年なすべき被創造物のあらゆる行為を記し、また天国の(七層ある中の)最下層に降臨し、被創造物達に罪の許しを与えんとして呼びかける、と記されている。マホメットは、このために、信者達に呼びかけて一晩中起きていて、百回のラクアを含む礼拝を捧げるよう、そして翌日には断食を行うよう勧めていたといわれている。
 シャアバーン月十五日は、上記の理由から、二大祭程盛んではないが、イスラム教徒によって祝われている。アラブ地域ではニスフ・シャアバーン(Nisf Sha”baan「シャアバーン中日」と呼ばれている。正式にはライラ・ニスフ・ミン・シャアバーン(Laylat al-Nisf min Sha‘bānシャアバーンの中日の夜)と呼ばれる。またペルシャ語圏ではShab-Ibarat(記録の夜)と呼ばれている

。贖罪の行事と同時に、年末・年初は死者や祖先を尊ぶ風習が一般であったため、この夜は日本の盆にあたる行事も行われる。メッカでは、(祖先の霊を祭る行事はラジャブ月に行われるが)この夜、特別な宗教行事がなされ、モスクの中では円座が組まれ、イマームの指導のもとでこの夜のための特別な礼拝が挙行される。インドやパキスタンでは、死者のために礼拝を行い貧乏人に食物を分け与え、この日のために作った菓子を食べ、明りや火の余興を楽しむとされる。またインドネシアのスマトラ島北部地方アチェーでは、この月全体が死者のための行事にあてられている。墓は清掃され、カンドゥーリと呼ばれる宗教的食べ物が与えられる。こうした善行の価値によって、死者は益を得ると考えられている。この地方でも十五日の夜は特に盛大に祝われる。
 モロッコでは十五日よりはシャアバーン月の月末が祝祭日となって、カーニバルのように祝われるとされているがおそらくすぐ後に続く翌月のラマダーンの行事とも直接関連しているためであろう。
 「シャアバーンの中日の夜」の祭礼は、地方によりラマダーン月の二十七日に催されるライラト・ル・カルド「みいつの夜」と混同されてもいる。
シャアバーン15日の夜、ニスフ・シャアバーンについては、拙稿のブログ「来年死すべき者、生まれ来る者の決まる日 シャアバーン月中日Nisf・Sha”baan」2016年7月12日付けで記しているので参照されたい。

またシャーバーン月にはアード族の「預言者フード霊廟への巡礼」があり、いずれ詳しく述べる積りである。この巡礼はアラビア半島の南部の人々にとっては古代から続き、イスラム期以降も断続的に続けられている。シャアバーンの6日から10日にかけての5日間であり、13世紀ごろからは、巡礼行が近くの町タリームから出発する行事として定められた。

 

なお、このシャアバーン月の厄日は4日と6日とされている。