孤立した聖月ラジャブRajab

                                                      イスラム暦第7の月ラジャブ(2)

 

               神聖月ラジャブの行事  ウムラ「巡礼行と犠牲祭」、サウム断食
イスラム期以前には、ラジャブ、この月の名は[聖なる月]として、余裕ある者はウムラ(巡礼行と犠牲を捧げること)が推奨されていたし、またサウム(断食)も推奨される行であった。この遺習はイスラム期以降にも引き継がれて、個人的意思として行うものも結構多い。
このラジャブ月には既にイスラム時代以前から、ウムラの巡礼と犠牲を捧げる習慣があった。後にイスラムの宗教儀礼の中に採り入れられて、巡礼月十日に行う祭礼を「犠牲祭」といって、その資力に応じて、巡礼者は巡礼地で、また非巡礼者は自宅で、ラクダや羊を屠って犠牲を捧げる、アブラハムの息子を犠牲に捧げる故事に基づくものである。


ラジャブ月には、ウムラ(小巡礼)の行が推奨されていた。この慣行はジャーヒリーヤの古くから行っていたことが知られている。イスラムではハッジ(巡礼)がズー・ル・ヒッジャ月の十日をピークに行われているが、このイバード(イスラムの義務行為)はイスラム誕生以前の慣行を引き継ぐものであった。そして三ヶ月続く神聖月の意義は、遠路はるばるとメッカ巡礼に出掛けるズー・ル・ヒッジャ月、その前後の月もメッカへの往路・復路の安全のためである、とするのがその概念である。ということはジャーヒリーヤの時代から、アラブが神聖月と見倣しているのは、すべて〈巡礼〉と関係していたことになる。

 

図はイスラムが誕生する以前の6世紀アラビア半島情勢。北方はササン朝ペルシャ(東側)とビザンチン(東ローマ帝国、西側)とに二分され領土争いが長らく続いていた。半島内は有力部族が群雄割拠していた。後にイスラムの三大聖地となる、メッカ、ヤスリブ(後のメディナ)、イエルサレムには赤線を引いておいた。H.A.B.Gibb編著 Historical Atras of the Muslim Peoples,Amsterdam,p.2

 

 

 

この巡礼月の行がイスラム前の慣行を引き継ぐものであったことは知られている。巡礼行には犠牲を捧げることが必要条件であったように、ラジャブ月の巡礼行にも「犠牲を捧げること」はイスラム前の慣行を路襲するものであった。ラジャブ月を祝うのに犠牲を捧げて、その後「共食」を行なって歓喜の時を送る。大型動物であるラクダを屠ってふるまうのが最上ではあったが、後で見るようにラジャビッヤとしての犠牲は、大巡礼・ハッジではなく、小巡礼ウムラであったので、ヒツジ・ヤギを捧げればよいとされた。

 

イスラム期以降になっても、かつてのラジャブの神聖月の慣行が継承されていた。第一金曜日、即ち木曜の夕べからの夜間は、祈祷や勤行で過ごすことが推奨されている。また巡礼するものも、家に留まる者も、信仰する神に対して犠牲を捧げて祭る。

ラジャブにこの犠牲を捧げる慣行は「Rajabで行うべきこと」という意味でタルジーブtarjiibと言われている。またその「犠牲を捧げる台」をもタルジーブとの特称となっている。抽象名詞が具象名詞になった。「祭壇」である。

 

そのラジャブの月の犠牲を捧げる特定期間の数日間をAyyaam al-Tarjiib(タルジーブの日々)とされている。

ラジャブ月に捧げる犠牲獣も特別な名称で呼ばれる。ラジャビッヤRajabiyyahがそれで、「ラジャブ月に捧げられる物」との意味となろう。

犠牲獣はラクダではなく、羊やヤギが対象とされるのが一般であった。ラジャビッヤ(rajabiyyah)と云えば「犠牲にささげる獣類」を意味するが、その元は、このラジャブ月に捧げられる犠牲動物を意味していた。

また同じ意味でアティーラ(‘atiirah)も用いられたが、共に異教神、偶像神への捧げ物との意味が強かったため、イスラム期以降、この異教崇拝的な名称の代わりにダヒッヤ(dahiyyah)を用いるようになった。

 

ラジャブ月が来ると「さぁタルジーブの日々が来た!」(haadhihi ayyaamu tarjiib!)と言い合った。タルジーブ「犠牲を捧げる台」は細長い形をしていたのが一般であったようだ。というのも「ムファッダル詩集」中に修められたタミーム族の武人で詩人であったサラーマ・イブン・ジャルダンが馬の首の部分をこのタルジーブに例えて謳っていることから、それが推断できるわけである(「ムファッダリヤート詩集」No.22,12詩節参照)。

 

ラジャブ月の犠牲を捧げる行為は徳高いアラブが率先して行うものであった。そして寛大であればある程、そのラジャビッヤ(犠牲とされる獣)も数を増すことになる。イスラム期以前のベドウィン詩人ハーティム・アッターイーは、このカラム(寛大さ)の権化とも目されている人物であるが、その有名な逸話の中に、「彼はつんぼ月(=ラジャブ)になると、毎日ibil(ラクダ)十頭をnahara(屠殺)し、人々に分け与えた。この寛大な行為によって、人々はこのラジャブ月には彼の回りに集まったと言うことである。(『歌の書』第十七章、三六六頁)。

 

毎日十頭もラクダを屠殺し、寛大さを示したハーティムとは逆に、犠牲をケチる者も当然あった。ラクダのような大型動物ではなく、山羊とか羊とかが普通のラジャビッヤ(又はアティーラ、犠牲動物)であった。しかし山羊や羊は用途が多い動産・財産であるため、これを殺すに惜しいと考える者は、しばしば家畜の代わりに割に手に入りやすい野生のガゼル(アラビア鹿)やアイベックス(野生ヤギ)を狩って代用とした。羊・山羊をケチってガゼルやアイベックスで済ませるわけである。この犠牲の代用は、このような神聖月の行事だけでなく、誓いをたてて、それが成就した場合、誓い成就の儀式に奉納及びその後の供食の、ケチな者の一弁法としても一般化した慣行でもあった。

 

遠方にいる者、遠くに長期滞在している者、旅にある者、遠くに嫁いで行った者など、ラジャブ月を待っての里帰りを行い、あるいは近隣の部族員同士訪問をしあい、両者の旧交を温めるべくラジャビッヤの共食を行う習慣を古くから持っていた。

 

そして徳高く、敬虔な人物は、他にも自ら「ラジャブの断食」を率先して行った。断食はイスラム期以降になって、ラマダーン(断食月)に移行したわけであるが。ラジャブ月にもまた敬虔なムスリムは断食を行なう。これは預言者マホメットが「この月に断食する者は、来世において生命の水を飲むことになろう」という伝承に基づいている。ラジャブ月には、経済的余裕のある者は毎日、羊か山羊を屠って、貧者や旅人に分け与えてやるのが慣行であった。

 

      ラジャブRajabの複数形の豊饒性
ラジャブRajabの語義は、前にも述べたように語根動詞rajaba「(人を)恐れる、尊敬する、畏敬する」から由来しており、「敬われるれるべき月」の意味である。一説には、崇拝対象が<月>であることに、大古のオリエントの月神であるシンSinやイナンダInandaとその後裔であるアラブの古代の星辰信仰との習合をラジャブの神聖性に見て取れよう。この関連からか、ラジャブRajabの豊饒性が語形の複数形の多様性に露出しているのだ。


興味深いことに単数形はラジャブRajabと共通して単独である。しかしその複数たるや、以下のような多様な複数形が存在していることである。これは一考を要する懸案である。単数が一つなのに、複数形はじつに9つもあるのである。
①arjaab、②rijaab、③rujuub、④rajabaat、⑤arjibah、⑥arjub、⑦rajuub、⑧araajib、⑨araajiibとある。
分類するならば、①、⑤,⑥は少数複数形を、④は女性規則複数形、⑧は⑤,⑥の複数の複数形、⑧は①の複数の複数形を表示しており、他は②,③,⑦多数形表示となる。アラブの諸部族がほかの部族がどう言おうが、自部族の固有性を主張した結果の残存であろう。

我々とは異なる複数概念は恐らく遊牧的思考から、家畜の数との関連もあろう。上に述べた複数形でも、単数の他に双数形も厳然とあり、3個以上は複数となる。漠然との複数を表せば集合形で済み、3~10以内の少数複数形、10以上の多数複数形、複数の複数形(少数複数の複数)など、家畜を群れと捉え、そのそれぞれがまた単位となる様な思考様式はそこに働いている。この家畜把握概念が、逆に言えば抽象的なラジャブ月の神聖なる意識を個と、個々の集まりと捉えるほどに共有化されていた証左となろう。

 

 

                      ラジャブ 蒸し暑き夏
ラジャブ(Rajab)月の時節、時候に関してであるが、ラジャブ月は七月とされている。イスラム期以前の陰暦ではあるけれども閏月を、二年ないし三年に一度設けていたために四季観は太陽暦とはほどんど変わらなかった。それならばラジャブ月の七月が暑い盛りの季節に当っていたはずである。 以下の事例は12世紀の作品からの引用である:


すると早速アレキサンドリア人の方が(相手に対して攻撃の)口火を切った、「おお(汝、     寒感走ること)老婆の厳寒よ、おお(汝 蒸し暑きこと)タンム-ズ(=7月)の蒸暑よ、おお(汝   汚らしきこと)冷やし瓶の汚さよ、おお(汝 役立たずとくれば)流通しない偽ディルハム貨よ、おお(汝 聞きたくもないものといえば)歌い手の講釈話よ、おお(汝 厭な年といえば)ブウス(bu’s   厄難多き)年よ、…
                                                      ハマザーニー作『マカーマート』第43話より
引用文の中で「蒸し暑きことタンム-ズ(=7月)」と出て来る。現在もそうであるから、ラジャブ月のこの表現はよく分かる。

 

                  半年後の年始ラジャブ=年始=1月の意味にも
しかしもっと時代を遡ると、必ずしもそうではないようだ。文献を探ると全く逆で、この月には寒風が吹き、冬の月にも当たっているのではないかと思わせる。七月であるラジャブが、プレイスラム期においては寒くもあり、降雨もあったことは文献が示している:
『ムファッダリヤート』詩集の中に、ウマイヤ朝時代に死亡したベドウィン詩人ジュバイハーウJubayhaa’ al-Ashja‘iyyの12詩行から成る詩が記録されている。この詩は詩人が己の所有する雌山羊を謳ったものであるが、その四詩行目に;
                 ラジャブ月の寒き夜に 雌山羊喚びて乳しぼれば
                 その豊かなことハトゥルの 大雨の降る如きかな
と謳っている。ハトゥル(hatl)とは「降り続く雨」とも「大雨」とも解釈されている。(『ムファッダリヤート』第三十三首、第四詩行参照)。
また『アビード・イブン・アル・アブラス』詩集は、ジャーヒリーヤ時代、ヒーラのラフム朝に関係していたサアド族の詩人アビード‘Abiid ibn al-Abras(554年頃没)の詩を集めたものであるが、その詩集の中には二ヵ所ラジャブ月のことが謳われている;
      1 雨の月に溜まりし涙 こらえ得ずしてしとど流れ落ちける
               その勢いのすさまじさラジャブの月に 降るどしゃぶり雨に似たるなり
                                                                              (十六首、第三詩行参照)
       2 ラジャブ月の吹きすさぶ 寒風の一夜にぞさい悩まされし
                  あるは流れ果てなき雨に 立ち往生となるもしばしば
                                                                                   (第三十三首、第四詩行参照)
このラジャブの謳われ方から観ても明らかなように、イスラム前の時代のラジャブ月即ち「七月」はどうやら当たってはいないようだ。冬期に当っていたことが分る。このこと自体、筆者には驚きであったと同時に、これまで抱いていたいくつかのイスラム前に関しての文化の謎が氷解した喜びでもあった。コプト暦が秋季(九月)に〈一月〉を持っているように、またペルシャ暦が春季(三月)を〈一月〉に定めているように、イスラム前のアラビア社会で用いられていた暦もまた、我々の抱いている暦の概念ではなく、全く逆な夏季(七月)を年初の〈一月〉と考えねばならない可能性があるのである。
ラジャブが何故「神聖月」とされたのか? その根拠には「年初」観が根強くあって、その月は流血を避けたい、平穏のうちに宗教回帰をおくりたいとの意味もあった。もう一つの「神聖月」は一月を中心とした前後の3か月であって、即ち一年12か月の第1月であるから、年初の意味もごく自然にあった。7月の方は、半年が過ぎた後半の<年始>に当たる。それ故いわば小正月的に祝祭として、月神や部族神 および歳神などの祝福(ni"mah)、善吉(khayr)、ご利益(barakah)があると祝われたのである。即ちラジャブ=年始=「1月と7月」となっていた。時折はラジャブを「1月」に当て嵌めて言う慣行があったことになる。プレイスラム期の7世紀になると次第にラジャブが「年始」の意味も「1月」の意味も失われ、「7月」に固定化していったと観たい。

では何故従来の史書や文学書にこのような月と季節の関係、暦のことについて言及したものが、少なくとも筆者の渉猟した範囲で、皆無であったのか。それはイスラム前の年代について史書ですら触れていなかったことにもよるし、また預言者によって、イスラム暦に於いては閏月を設けてなくなってしまったためである。閏月の排除は必然的に季節とは全く関係ない動きを示し、季節的目安とはならなくなってしまった。そのため、イスラム期以降、その誕生以前に持っていた〈月〉の名称とその意味合いの注意が払われなくなり、無意識裡に用いているにすぎなくなった。自然とその人間関係の営みで付された〈月〉の名称は、年中行事や歳時とも密接に関連していた。イスラム期以降、断食月とか巡礼月とか、宗教的関係によってのみ意識される〈月〉名に過ぎなくなった。ラジャブが「七月」だといっても、季節の目安とはなっていない。また、月名のムハッラム月が何故年初になるのか、その起源すらも忘れ去られる結果となってしまった。

 

                    ラジャブ月の暦象
26日に(1)で述べた預言者に起きた奇跡と言われる「イスラーウ(夜の旅)とミウラージュ(昇天)」の一夜が生じた日とされる。

この月の厄日は11日と13日とされている。