12月星暦第2スブウ12月8日∼14日
アラブの星ごよみ 12月星暦(2)
今日は12月8日、師走に入って、いよいよ寒気が、そして北風の強度が増して来た。外に出るのも、散歩に出るのも億劫になってきた。わが国では12月7日は24節句の「大雪」であり、「天地閉塞、雪降る」とある。いずこも縮こまって、籠ってしまう。我々の身体も心も。「小雪」は11月22日であった。雪の降る地方では、「雪」が、「白」が冬および寒さの指標となろう。同じ12月7日わが国の「大雪」の日、アラブ世界では、それまでの「入り混じった夜々」Layaalii al-Bulqから「黒夜」Layaalii al-Suwdに突入する。アラブでは雪がほとんど降らないため、以下の暦事で見るように、<黒>がその「寒さ」ないしは「冬」を表す指標となっており、こうした点も異文化や地域的特色を浮き出させていよう。
一か月の4分割は「週」ウスブーウusbuu”に相当するが、伝統的アラブの時制の呼称では「七日毎」の意味でスブウsub”と言う用語がある。それに従えば今回は12月の第2スブウ8日∼14日までの星ごよみを扱うことになる。
今日12月8日の太陽の位置はどこか?太陽は蠍座の尾の付け根に在る。経度的にはそうであるが、実際は同経度の北、へびつかい座の足元にある。陽射しが大分傾き、西側に面し
た我が家には、昼過ぎから室内に入って来るようになった。土星がすぐ東に在って0.4等星の光を輝かせてはいるものの、太陽の明るさに消されみることはできない。更に東には水星と、金星、それに火星が見事に並ぶ。六日の夜には半月がこれらの三ッ星惑星を導くように見えた。赤く輝く火星も、その赤さが月光のために霞んでいた。やんちゃ坊主が頭を押さえられているようにも。水星は射手座の南斗六星に在って、そこからさらに東に向かおうとしており、目に見えやすくなってきている。金星は射手座を出て山羊座に入ろうとしている。宵闇に瞬きを一層増して我々を見守ってくれている。
惑星の中でポツンとある木星。乙女座に歳星として宿り、スピカに接近しつつある。春の大三角の中に既に入っている。孤独も慣れっこになってはいるが、乙女座と春の大三角が話相手の慰めとなってくれよう。我々には太陽の西にあるので、視認は出来ないのではあるが。
図は黄道12宮の蠍座とその司星の火星図。蠍二匹を両手に持つ武人姿の火星がどっかと坐る。守護される身であるので、両方の蠍とも手向かいもせず、握られてぶら下がられても素直に従っている。傍らにはもう一人の火星の擬人化された武人の火星が生首を持って控える。こちらの方が普通の火星の姿である。
下の図は蠍座30度を、6度ずつ平均5分割した副司星を表す。「5分割」と言った場合、普通数詞の5であるハムサkhamsahの分詞形フムスkhumsと言うのであるが。占星術ではハッドhadd(境界)を用いる。蠍座30度を、6度ずつ平均であるが、ハッドごとに度数が異なる。ここでは第1ワジュフ(10/30度)の場合であるから、副司星が異なる。第1ハッドは普通では司星がそのまま来て火星となる司星となるはずであるが、ここでは夜空を顔の円輪としている月が副司星となっている。第2ハッドは、普通では金星であるが、ここでは太陽が副司星となって顔を陽射しで黄金色にして手で支え持つ姿である。第3ハッドは普通では水星であるが、ここでは肌が黒く白髪の老人で労働をしている土星が副司星となっている。次の第4ハッドの副司星は普通では木星であるが、ここでは水星であって、誰かに語り掛けているようである。水星の擬人化は、ここもそうであるが書記とか官僚、臣下の姿で表される。最後の第5ハッドの副司星は普通では火星か土星かに決まっているのであるが、ここでは金星になっている。金星は、芸能に長けた若い女性と擬人化される。ここでも帽子や衣装がきらびやかに着飾り、立膝をついてウードを抱え込んで弾きながら人々を楽しませているようす。
月の位置はどこか? 今日は上弦の月、半月が太陽の沈む前から中天にかかって、夜空となるほどそのふくらみを増す。今夜の宿は、水瓶座の東端、魚座の西に伸びる魚の先端に当たる。月の28宿のうち、第26宿のファルグ・ムカッダム(al-Fargh al-muqaddam水瓶の前口)に宿ることになる。すぐ傍らに海王星が控えている。
イスラム暦だと、今日12月8日は1438年の第3の月第1ラビーウal-Rabii” al-Awwal月の9日目に当たる。そしてイスラム世界では3日後の、第1ラビーウ月11日には盛大な祝祭を迎える。預言者の生誕祭、マウリド・ナビーMawlid n-Nabiiである。イスラム教の預言者の命日である。アラブ世界では誕生を祝う習慣はなく、その死んだ日を誕生日とする風習が出来上がっていた。いずこも宗教的行事と祝賀行事でにぎあうことであろう。紛争や内紛が終わり、文化的行事を執り行えるように祈るばかりである。
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12月8日
アシュラフ暦(1296年)イエメン、サービイー黍(al-Saabi"ii)のファリーク(fariik)出回る。夜明け方の夜空にスハイル不在(maghiib)となる。
チュニジア航海暦(1571-72) 第5宿ハクア(al-Haq”ah白兆)のナウ(星宿の没)、6夜続く。
マハッリー暦(1733-34) 夜明け(al-fajr)に、カルブ(al—Qalbサソリの心臓)の昇る。
樹木からすべて落葉する。
ハイダラ暦(1945ー46) 蠅や蚊が死滅し始める。
12月9日
アシュラフ暦(1296年) 海岸地帯(al-Tihaamah)ではジャフリー黍(al-Jahrii)の耕種。
マハッリー暦(1733-34) 夜長のピーク。
ハイダラ暦(1945-46) 香を焚き嗅ぐこと勧められる
12月10日
アシュラフ暦(1296年) 蛇、盲目になる。
マハッリー暦(1733-34) 太陽、やぎ座(al-Jady)に入る。
ハイダラ暦(1945-46) アデンでは寒気一段と強まる
12月11日
アシュラフ暦(1296年) 夜明け方、第19宿シャウラ(蠍の尾)東天にトゥルーウ(東昇)、西天に第5宿ハクア(白星)のグルーブ(西没)、ナウは一夜とされる。
夜明けの頃、中天に在るは第12宿サルファ(獅子の尻)。
ナイルーズから340日目に、ペルシャ湾からのカイス船、ホルムズ船、カルハート(Qalhaat)船がアデンに入港する。
マハッリー暦(1733-34) 賢者・有識者(al-Hukamaa’)たちの冬季の始め。アラブの間ではラビーウ(春)期となる。
ハイダラ暦(1945-46) 正午(zuhr)の度数6時間22分に達する
12月12日
アシュラフ暦(1296年) 霜(dariib)の時期の最後。太陽の南への傾斜最大限となる。
チュニジア航海暦(1571-72) ラヤーリー(al-Layaarii)の夜祭。
マハッリー暦(1733-34) サトーキビの伐採
ハイダラ暦(1945-46) 海の波、長い波長になり始める
12月13日
アシュラフ暦(1296年)エチオピアクミン(=黒クミン)、イエメンでは播種時。
マハッリー暦(1733-34) ペルシャ暦ではティールマーフ(Tiyrmaah)月に入る。
ハイダラ暦(1945-46) ムハッラム月9日、タースーアーウ(Taasuu”aa’)。
エジプト28宿暦(1965年) 第18宿カルブ(al-Qalbサソリの心臓)、25日までの13日間。この宿の間は凶(nahs)とされた。
12月14日
アシュラフ暦(1296年) 山羊座・磨羯宮に太陽が座を占める(huluul)。
この日昼が最短で、夜が最長となる。この日を境に昼間が増し、夜間が減少する。
寒さ厳しくなり、冬に入る。
マハッリー暦(1733-34) 太陽の留(wuquuf)。
ハイダラ暦(1945-46) ムハッラム月10日、アーシューラーウ(“Aashuuraa’)。
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12月第2スブウの暦の解説
以上の暦象を纏めてみると、第2スブウ12月8日~14日のアラブの星ごよみにおいて、項目別では以下のようになる、解説できるところはカッコ{ }で書き加えておいた。
1) 12か月、12星座関しては:
マハッリー暦(1733-34)12月10日 太陽、やぎ座(al-Jady)に入る。
マハッリー暦(1733-34)12月13日 ペルシャ暦ではティールマーフ(Tiyrmaah)月に入る。
アシュラフ暦(1296年)12月14日 山羊座・磨羯宮に太陽が座を占める(huluul){冬至の指標となる。山羊座に太陽が入るのは500年経っても変わらないことか。地軸の関係で1000年に一星座太陽が前の星座に移行すると言われるが、アシュラフ暦(1296年)とマハッリー暦(1733-34)とはおよそ4世紀半の隔たりがある}。
2) 月の28宿に関しては:さそり座の宿の記述が多い。
チュニジア航海暦(1571-72) 12月8日 第5宿ハクア(al-Haq”ah白兆)のナウ(星宿の没)、6夜続く。{前宿からは13日後}。
マハッリー暦(1733-34)12月8日 夜明け(al-fajr)に、カルブの昇る。{al—Qalbサソリの心臓は月の28宿のうちの第18宿であり、サソリ座の上半身のα星のことを言う}
アシュラフ暦(1296年)12月11日 夜明け方、第19宿シャウラ(蠍の尾)東天にトゥルーウ(東昇)、西天に第5宿ハクア(白星)のグルーブ(西没)、ナウは一夜とされる。夜明けの頃、中天に在るは第12宿サルファ(獅子の尻)。
エジプト28宿暦(1965年): 12月13日 第18宿カルブ(al-Qalbサソリの心臓)、25日までの13日間。この宿の間は凶(nahs)とされた。
3) 恒星暦では:
北斗七星暦に関しての暦象は記されてはいない。
カノープス(スハイル)暦 UAE(首長国)(1986年)では108日目から115日まで。
アシュラフ暦(1296年)12月8日 夜明け方の夜空にスハイル不在(maghiib)となる。{アシュラフ暦によれば1月2日夕刻に再出現tuluu”u al-Suhaylu “asha’aとある、とするとその関係は?}
4)気象関係では:冬至に関する事項が目立つ。
マハッリー暦(1733-34)12月8日 樹木からすべて落葉する。
ハイダラ暦(1945ー46) 12月8日 蠅や蚊が死滅し始める
マハッリー暦(1733-34)12月9日 夜長のピーク。{冬至は14日に記されており、大分早い}
アシュラフ暦(1296年)12月10日 蛇、盲目になる{=冬眠に入る、矢張り南国なので冬眠も遅くなる}。
ハイダラ暦(1945-46) 10日 アデンでは寒気一段と強まる
マハッリー暦(1733-34)12月11日 賢者・有識者(al-Hukamaa’)たちの冬季の始め{賢者・有識者(al-Hukamaa’)たちの冬季とは?}。
アラブの間ではラビーウ(春)期となる。
ハイダラ暦(1945-46) 11日 正午(zuhr)の度数6時間22分に達する
アシュラフ暦(1296年)12月12日 霜(dariib)の時期の最後。太陽の南への傾斜最大限となる。
ハイダラ暦(1945-46) 12日 海の波、長い波長になり始める
アシュラフ暦(1296年)12月14日 この日昼が最短で、夜が最長となる。この日を境に昼間が増し、夜間が減少する{=冬至}。寒さ厳しくなり、冬に入る。
マハッリー暦(1733-34)12月14日 太陽の留(wuquuf)。{「太陽の留」wuquuf al-Shams とは「冬至」のこと。「至・分点」のことをウクーフwuquufと言っている}
5)生業(農魚牧事、商工、交易事)関係では:
アシュラフ暦(1296年)12月9日 海岸地帯(al-Tihaamah)ではジャフリー黍(al-Jahrii)の耕種。
アシュラフ暦(1296年)12月11日 ナイルーズから340日目に、ペルシャ湾からのカイス船、ホルムズ船、カルハート(Qalhaat)船がアデンに入港する。
マハッリー暦(1733-34)12月12日 サトーキビの伐採
アシュラフ暦(1296年)12月13日 エチオピアクミン(=黒クミン)、イエメンでは播種時。
6)行事、習俗関係では:
アシュラフ暦(1296年)12月8日 イエメン、サービイー黍(al-Saabi"ii)のファリーク{fariik挽割バター料理)出回る}。
12月9日 ハイダラ暦(1945-46) 9日 香を焚き嗅ぐこと勧められる{イエメンは香料で栄えただけあって、香文化が生活に息づいていることが分かる}。
チュニジア航海暦(1571-72) 12月12日 ラヤーリー(al-Layaarii)の夜祭{ラヤーリーはライラlaylah(夜)の複数であり、これだけでは不明、幾夜か続くマグリブの「夜祭」であったろう}。
ハイダラ暦(1945-46) 13日 ムハッラム月9日、タースーアーウ{Taasuu”aa’ シーア派の「九の日」フサイン殉教日の前日祭)
ハイダラ暦(1945-46) 14日 ムハッラム月10日、アーシューラーウ{“Aashuuraa’ 「十の日」フサイン殉教日、教主イマーム・フサインが殉教されたのを悼み、シーア派ムスリムの間では、それに因む様々な追悼行事が行われる。イエメンのシーア派は穏健なザイド派と呼ばれ、断食が勧められる}