犬の目・視覚、鼻・臭覚、耳・聴覚 犬の生態的特徴
前回は犬の生態的特徴として、1 犬の口、歯、舌について記した。今回は視覚を司る目、臭覚を司る鼻、聴覚を司る耳について観て行く。
2 犬の目 “Ayn
犬はまた目(“Ayn)の良いものの典型とされている。「目の良い人、視力の鋭い人」のことをバスィールbasiirと言っている。バサルbasar「視力・視覚」から派生した形容名詞である。
更に比較級として「より目の良い、視力の効く」の意味でアブサルabsarと用語化されている。「より目の良い、視力の効く」アブサル、その典型例がアラブには俚諺化されていくつかある。犬が真っ先に来て「犬ほどに目の良い」absaru min kalb (Ask.Ⅰ240、Zam.Ⅰ22、May.Ⅰ116、Dam.Ⅱ538)があるほどである。
図はアラブの猟犬サルーキーSaluuqii。同一画(画家T.J.Gilbert作The Desert Falconer)の部分である。砂漠の中、狩猟に出ているところである。いずれのサルーキーも一方向を見つめている。獲物を見つけた瞬間を捕らえたものであろう。耳と尾に房毛が無いのは、純粋アラブ種である。両図とも鷹匠ベドウィンが騎乗して鷹を据え俊足のレース用ラクダの足元に居り、向かって右がラクダの前脚であり、左が後脚である。
アラブの間では、他に視力良いもののとして代表として、タカ(baaz)、蛇(hayyah)、馬(faras)、鷲(nasr)などがある。「視力の効く者」バスィールは、以下の法学問答の事例のように、その対象が人間ではなく、犬の場合さえある:
質問者「ダリール(dariir盲者)からもたらされる水でのウドゥーウ(沐浴)は許されるでしょうか?」。ファキーフ(法学者)が答えるに「dariirが「川縁の水」ならば、許されます。目の良い者(basiir=犬)の(飲んだ)水は避けねばなりませんが」。
ハリーリー作『マカーマート』第32話 拙訳平凡社版Ⅱ406。
この法律問答では同音異義語が多く出て来て、質問者が突飛な質問をして、賢明なファキーフがそれを読んで、解答を行う形式で進められる。ここでは多義語ダリール(dariir)を題材に「盲者」と「川縁の水」とを綯い交ぜにされているわけである。但し書きで、犬の飲んだ水は沐浴には避ける、と付言されているが、後で述べるように犬が不浄とされているためである。
3 鼻・臭覚 Anf
そもそも、動物とは“毛物”であり、「毛」物はそれ独自のにおいを持っている。人類の感覚の中で一番退化したものが 嗅覚であり、 動物はすべてにおいに関しては、犬の例をひくまでもなく、敏感であり、人間がそれを退化させているだけの話である。風呂好きな日本人は、体臭を嫌ってそれを洗い落としている。香りを重んずるアラブは古くから、己の体臭と合う香料・香水をつけて、それを躾としていた。六感を所有している人類のなかでも日本人は、同じ「毛」物のなかでも異常な人類である。体臭を削いでいるのだから。またさらに言えば他の毛深い人種と比して何と毛の目立たない薄い連中だな、とも。動物の方から見れば、こんな人種観も浮かんでこよう。
犬の臭覚は人間の何千倍もあり、人跡を追う作業にはもってこいである。臭い跡の追跡の慣行は古くから逃走者の跡を追わせたり、猟犬のように獲物の跡を追わせたりして用いて来た。最近では崩壊した建物の中に人がいるかなども加わって、警察犬として利用価値を高めている。
天の犬、大犬座の上に小犬座について先にも述べたが、小犬座二つ星のβ星は「猟犬の鼻先」に在って、4.2等星で、欧名カラCharaである。しかしアラブの方では「第二のサルーキー」として、サルーキー・サーニーal-Saluuqii al-Thaaniyyとしているのである。
4 耳 聴覚 udhn
「聞き耳を立てる」という言い方があるが、犬の仕草でも尾同様、耳はよく動く。サルーキーのように砂漠適合して耳を垂らす犬ですら、より正確さを期すために、一瞬その耳元の空間を開ける。そして音の聞こえる方角に耳を立てて、しばらく神妙な顔つきで様子を見遣っている。砂漠のキャンプ地の犬などは、人の接近に真っ先に気づき、聞き耳を立てて吠え声を上げる。旅に困窮した者にとっては、特に夜旅に疲労した者には、犬の鳴き声は天の恵みとなる。近くにテントがあることを告げてくれ、その犬の所有者からベドウィンの歓待を期待できるからである。
犬にもよく壁蝨(ダニquraadah)が付く。柔らかな耳たぶなどには特に付きやすい。よく犬が耳を後足で擦っている動作を見かけるが、その一つは壁蝨落としや壁蝨除けの対策でもあろう。アラブの民間信仰には、狂暴犬や不従順な犬に対しては「犬の耳から壁蝨(だに)(quraadah)を取り出して手に持っていれば、どんな犬だとて従順になる」と信じられている。さらに犬の薬膳・特効作用に関しても、酔いたい者には最高の「犬の壁蝨(quraadah)をワインに入れて飲めば、即座に酩酊状態になる」との俗信もある。