「アブラハムが息子イスマーイールを犠牲とした日、供犠の日」 「犠牲祭」
                 巡礼月10日目ヤウム・ナフルYawm al-Nahr     メッカ巡礼(13)


メッカ巡礼3日目であるズー・ル・ヒッジャ月の十日目は、ヤウム・ナフルYawm al-Nahr「犠牲の日」、「供犠の日」といわれる。巡礼行のクライマックスである「犠牲祭」が取り行われる。同時刻、メッカ巡礼者だけでなくイスラム世界のすべての信者が家族ごと犠牲を屠り、犠牲の宗教的意味を再確認するのである。

9日目の夜、メッカ・アラファ間の野営地であるムズダリファに野営していた巡礼者も、またミナーまで進んで野営していた巡礼者も、早朝にタルジーム(tarjiim石投げ)を行う。三つあるジャムラ(al-Jamrah悪魔の塔)へ昨晩集めておいた小石を、それぞれ七つづつ石を投げる行である。三つの「悪魔の塔」の謂れは後で述べる。それから犠牲を捧げる「犠牲祭」をこのミナーで行う。「犠牲を捧げる、屠る」ことをザブフdhabḥ、またはナフルnaḥr と言う。「供犠」行を行なう。巡礼者はここでイフラームから解除され、断髪や剃髪を行なう。ここまでが公式の行事である。
さてミナーの谷での行事を行う前に、ミナーの地の由来を述べておこう。アダム伝承とアブラハム伝承とがある。

 
          図1    ミナーで野営する巡礼者たちのテント群 中央に見えるのがハイファモスク
                                                                                 1960年頃の絵葉書

 

アダム伝承ではアラファの野で神のラフマ(慈悲)によって再会をはたしたアダムとイヴの二人はアラファの野から西に移って、カアバ神殿から東五キロメートルのミナー al-Minaaに住んだとされている。そこは アダムが楽園にして欲しいと、天使に己のムナー munā (望み)を訴えた所とされている。それがミナー minaaと訛ってal-Minaaとして地名になったとされている。図1を参照 このミナーのワジの南方に建立されているハイフ寺院 Masjid al-Khayf は本来はアダムの墓を収める廟であったという[『大旅行記』Ⅱ172,232]。ミナーの地で巡礼者達はハッジの期間(八日~一〇日、義務ではないがそ の後に続く三日間も)テント生活を送るのが慣例となっている。

一方アブラハム伝承は、アブラハムの供儀、イスマーイールの犠牲にまつわる故事として色濃く反映されている。「イサクの犠牲」として聖書世界では当たり前のように考えられている。ヨーロッパ・キリスト教世界ではアブラハムの供儀、 イサクの犠牲としての場は、イエルサレム・モリアの丘(岩のドーム)とされている。しかしアラブ世界の方では「イシュマエルの犠牲」であって、その供犠の場はメッカの谷を出て北西に続くミナーの谷の出来事とされる。さらにアブラハム、ハージャル(旧約ではハガル)、 イスマーイールの故事が多様に展開している。

9日目で「長子を犠牲に捧げよ」と言う声が神の声であると悟ったアブラハムは、その三日目の晩も三度同じ夢を見た。そして朝になって、即ち巡礼月10日目に当る日こそ息子イスマーイールを神への犠牲として屠る( nahara) べき日として、それを決行したのである。 それ故この日は Yawm al-Nahr (屠るべき日)と呼ばれるようになった。
用意を整えて息子を神に捧げるべく犠牲の場ミナーの谷に向かった。妻と息子イスマーイールを伴った一行が、ミナーの入り口の隘路 アカバ‘Aqabah に指しかかった。すると悪魔が待伏せし、息子を犠牲にすることの非を説き、甘言をもって息子を捧げる愚行を説いて、そんな非道は止めるよう誘なう。それは三回続いた。清廉なアブラハムは悪魔の言に耳を貸さず、 小石を投げつけて追い払った。悪魔の誘惑はさらに続いた。アブラハム一行がしばらく行くと再び悪魔が現われ、今度は息子イスマーイールを誘惑する。これに対してイスマーイールも石を投げつけて追い払う。 さらにアブラハム一行が歩を進め、供犠の場に近づくと、三度悪魔が出現し、妻ハージャルに執ように甘言をもってその行為を止めさせようとする。これに対して 妻ハージャルもまた小石をもって退散させる。こうして犠牲の場に至り、供犠を行なうことになる。図3参照 その供儀の場も神によって指示され たのであろう。これ以降マズバフ・イスマーイル Madhbah Ismā‘īl (イスマーイールの犠牲場)とされ[『旅行記』(原)137(訳)143]、今でもその岩が残っており、巡礼者を魅きつけている。 アブラハムとイスマーイールの神への忠誠心を見届けた神は、天使ガブリエルに命じて身代りとして カブシュ kabsh (雄羊)を与えて、それを供犠とさせる。ガブリエルによって連れて来られたカブシュは「イスマーイールの犠牲場」のすぐ上にある窪地で屠られる。ここはマジャッル・カブシュ Majarr al-kabsh (雄羊の引摺られの場)とされている[『メッカ巡礼』Ⅱ219~20]。この両地は囲われて、イスラムでは聖地とされており、ここを訪れて祈禱を捧げるのもスンナ(推奨行為)とされている。これに因んで巡礼月10日目の犠牲祭はこの両地の近辺で巡礼者達によって盛大な供犠が催されていた。いまでは近代的背指の屠殺場があり、そこの犠牲獣の中から肉片を塊で受け取ることになっている。


 
        図2  ミナーに在るジャムラ(悪魔の塔)の一つ、真ん中の角柱がそれで、お椀状に石

    つぶてを受けるようになって、もうほとんど小石で埋め尽くされようとしている。これは

    二階部であるめジャムが低く見える、地階部も同様な受け皿構造になっている横のより

    高い塔は見張り台である。

 

この悪魔が出現した場所ジャムラal-Jamrahの三ヶ所には石柱が建てられ、アブラハムを誘惑しに出現した場をアカバのジャムラ alJamrat al-‘Aqabah 、図2参照 イスマーイールとハージャルが追い払った悪魔出現の場を、それぞれ中間のジャムラ alJamrat al-Wustaa 、第一のジャムラ al-Jamrat al-Uulaa と呼ばれる。アブラハムの故事に従えば逆の順であるが、これは巡礼行 の復路の行事となるために、アラファに近い方から第一ジャムラとなっており、 従ってアカバのジャムラは最も重要な場であったにもかかわらず第三のジャムラ al-Jamrat al-Thālithah とも呼ばれる[『旅行記』(原)136、(訳)142]。

 

この故事に基づいてイスマーイールはアラブ伝承の方では「犠牲とされた者」ザビーフal-Dhabiihと呼ばれ、神の命令に、父の指示に忠実に従った潔白な者として、尊崇され、人名にもイスマーイールに因んで好んで名づけられている。イスマーイールはザビーフッラー Dhabīḥ Allāh (アッラーに犠牲として捧げられた者)の別名でも知られる。アブラハムがハリールッラー Khalīl Allāh (アッラーと語る者)とこの機を境に言われるように。

 

さてユダヤ教やキリスト教では、ご存知の通り「犠牲となったアブラハムの息子・ザビーフ
al-Dhabiih (屠られた者=神に捧げられた者)がイサク(イスラムではイスハーク lshaaq )であることが当然視されている。聖書学で固めてしまった。妻はサラであったのか、ハガルであったのか、犠牲とされたのはイサクでは無くイシュマエルでななかったのか。

 

一方イスラム学者の間では、イサクなのかイスマーイールなのかをめぐって、 古くから議論があった。
『旧約』によれば明らかにイサクであり、従ってユダヤ教徒、キ リスト教徒(ムスリムからは両者は Ahl-al-Kitāb 啓典の民と呼ばれる)はそれを信じ、教会画の主要 なモチーフとして描かれ、我々にも馴染みである。確かにムスリム学者の間には『旧約』の記述を是 とする者、またこの主題を扱う『コーラン』三七章一〇二節からの記述がイサクに収斂してゆく内容 からイサク説を支持する学者もいる。
しかし一方では、ザビーフはイサクではなく、イスマーイールである、とするのが大勢を占める。第一にメッカ伝承、巡礼伝承との関連ではイサクは全く無関係である。またイサクはヤコブの父 Isḥāq Wālid Ya‘qūb と『コーラン』の他の箇所(一一:七一)に明言 があり、イスラエルの父ということになる。第三に一人息子 al-Waḥīd とあるが、アブラハムには二 人の息子がある(ハージャルとはイスラムでは第一夫人とされる)し、また Bikr (初物、初生児、長子) とあるところから、イサクはその両方ともに価しない。また「バビロンの捕囚」後、解放され聖職者ラビ集団を作り、ユダヤ教の体系化を進めた。『旧約聖書』なるものは紀元前六世紀頃集大成された『旧約』の 諸出来事はユダヤ人の正統性を訴えるために、周囲の高文化圏の、また諸民族の伝承物を自民族の有利なように作り上げたものであり、ハージャルやイスマーイールの記述はそうした類のものであるとして、 イスラムへの改宗ユダヤ人の証言などを記している[『預言者物語』161~64]。
 

 

図3  神の命に従って父アブラハムが息子イスマーイールを犠牲にしようとした刹那、天使がこの羊を身代わりにせよと差し出す。1960年代カイロの街頭で買った大道絵。