義母の容体がよくならず

どんどん呼吸が難しくなり

このままでは呼吸ができなくなる

ゆっくり溺死していくような感じになる


眠って体やすめて肺の治療をして

いきましょう、と

人口呼吸器をつけることになった


なんでこんなことになってきたのか

股関節の手術のはずなのに


結局そのまま人口呼吸器をつけて

眠らせたまま数日後に

義母はなくなるのです


意識があるうちに話せるうちに

顔を見て話しておいたほうがいいという

お医者さん



わたしは息子の嫁なので

お義父さんとオット、義弟たちが

義母の顔をみて話せばいいんです


いつもは義母が入院したら

わたしが家のことと商売のことを

するので義母とわたしの暗黙のルールで

わたしはお見舞いにこないことに

なっているので、わたしまで顔をだしたら

なにかを悟ってしまうかもしれません


普通にふるまうのも難しく

そのときも涙でてきてて

義母の顔を見て泣くのはダメだし

お義母さんも絶対なにか気づくはず


今思うと自分がもしかして、は

もう考えてもいたのかもしれないけど


あのときお医者さんや看護師さんが

会って話したほうがいいよという

すすめには従いませんでした


遠くからストレッチャーで運ばれる

義母を見送るつもりでいたし

そうしていたつもりでしたが


義父や、オット、義弟たち

そしてこのとき偶然ですが

義母の弟さんが顔をみにきたので

手術室にむかう義母を見送りしたんですが



遠くにいたのにわたしに気づいて



Mちゃん!どうしたの!?

笑って!だいじょぶだから!


呼吸も苦しいだろうにわたしに笑顔で

そう言ったんです


それが、わたしが義母からもらった

さいごの言葉になりました



このときも義弟嫁はいなかったんですけど

そのことさえもありがたいと思うくらい


わたしと義母、2人の時間を

神様がくださったのかな

ありがとう、といまも思ってます


膠原病になった頃は

病気へのショックや体のひどさで

八つ当たりのようなことがあり


そのことを覚えているわたしは

体ひどいの?

なにか買ってこようか?

作ろうか?


など、声をかけてそのたびに

いらない、とか、構わないでとか

言われてきたので


その後、ひどそうにしてても

向こうから何も言わないのなら

こちらからも声をかけないようにも

なっていて


義母の友達たちが様子見にきては

買い物連れてったり

頼まれたものを買ってきてたり

してたのも見て見ぬふりをしていました


なにか動いたら、話しかけたりして

また傷つけられるのが嫌だったのです



だから人口呼吸器を外せる日がきて

うちに戻ってきたときは

迷惑がられても声かけしようと

思っていたし


しばらく話せないとも言われてたので

意識もどったときの意思疎通のためにと

子どもたちと◯✖️のカードや

書き込みできるようかものを

百均に買い出ししたりもして用意してました


あのときはみんな不安な気持ちを

おさえて、ばーちゃんの意識が

戻ったら、ってはなしをしてたと

おもいます


義父はこのときから

義母の病室に泊まるようになり

家には戻ってきませんでした



義母の病室はナースセンター横の

心配な患者さんがはいるお部屋で

カーテンで仕切ってあるだけの

広いところで

ほかにも患者さんがいらっしゃって

つねに機械音が鳴り響くところだったので

落ち着かないし音が気になるし


それでも義父はずっと泊まってて

そんなにお義母さんのこと心配で

だいじに思ってたんなら

おかあさんが動けるときに

約束してたお蕎麦やさんとか

温泉連れてってあげればよかったに、なんて

思ってもいました


行きたがってたんです

お義父さんとお蕎麦。