(ローマ・カトリックの発展と修道院運動)

1  政治権力との提携

 キリスト教はローマ帝国の分裂、ゲルマン人の侵攻という大きな変動の波にさらされることとなった。さらにローマ=カトリック教会は東ローマ帝国のもとにあるコンスタンティノープル教会と教会の首位の座をめぐって争うこととなり、その間、新たな保護者としてフランク王国と結びつき、西ヨーロッパの精神世界だけではなく、政治権力とも深く結びつきいていった。

 ゲルマン民族の国家のなかでとくにフランク王国が発展した。フランク人はメロヴィング家のクローヴィス(在位481−511)により統一された。かれはローマ帝国で異端とされていたアリウス派キリスト教(キリストに人間性を認める)をローマ帝国の正統派のアタナシウス派(キリストと神と聖霊は三位一体とする三位一体説をとる)に改宗して、ローマ人貴族の支持を得た。

 7世紀にムハンマド(マホメット)によりアラビア半島のメッカで創始されたイスラム教が8世紀にアラビア半島からアフリカ北部を経てイベリア半島の西ゴート(ゲルマン人の国)を711年に滅ぼして、フランク王国に侵入しようとしたがメロヴィング家の宮宰カール・マルテルはトゥール・ポワティエ間の戦い(732)年でイスラム教徒を破り西方キリスト教世界をイスラム教徒の侵入から守った。


地図の解説ーアッバース朝、後ウマイヤ朝はイスラム王朝。フランク王国はカール大帝の時全盛期を迎えてローマ・カトリック教会と提携した。そしてビザンツ皇帝から独立してローマ・カトリック教会とビザンツ教会(コンスタンティノープル教会・ギリシア正教会)は分裂した。  アカデミア世界史 浜島書店)


 さらにカール・マルテルの子ピピンは751年メロヴィング朝を廃して王位につきカロリング朝を開いた。またかれはイタリア北部のラヴェンナ地方をローマ教皇に寄付して(ピピンの寄進)、ローマ・カトリック教会との結びつきを強めた。ピピンの子カール大帝の時代に教会との結びつきはいっそう強まった。

 かれはランゴバルド王国を滅ぼして、北東のザクセン人を征服した。またモンゴル系のアヴァール人を撃退し、南方のイスラム教徒を退けて西ヨーロッパの主要部分を回復した。そこで800年ローマ教皇レオ3世はカール大帝にローマ皇帝の帝冠を授けた(ゲルマン人による西ローマ帝国の復興)。

 これはローマの古典文化とゲルマン人的要素とキリスト教が融合して中世ヨーロッパ世界が成立したことを意味する。

 ローマ教会は東ローマ(ビザンツ帝国)の皇帝から独立して、11世紀にはローマ教皇を首長とするローマ・カトリック教会とビザンツ皇帝を首長とするギリシア正教会に分裂した。

 このようにフランク王国との提携によって西ヨーロッパ世界にローマ・カトリック教会が発展した。


(アカデミア世界史 浜島書店)


2 修道院運動

 ローマ・カトリック教会が発展する一方で、イエスの生きていた時代の純粋な信仰は次第に失われ、ローマ・カトリック教会の首長である教皇は皇帝や国王と並ぶ権力をもち、華美な生活を送り、聖職者も腐敗・堕落するようになった。そのような教会の腐敗堕落に対して本来の信仰に戻ることを主張する目的でヨーロッパ各地に修道院が建てられて、修道士が俗世間を離れて、「祈り・働け」ををモットーに自給自足の労働をしながら共同生活した。余暇には聖書や学問を研究した。修道院は中世キリスト教文化の中心となった。これが修道院運動である。

 しかし修道院も時間の経過の中で改革が忘れ去られ、財産や土地を所有し世俗的な欲望にとらわれて堕落していった。そこでまた別の修道院からまた改革運動が起こった。

 修道院運動にはは6世紀のイタリアのベネディクトゥスの運動(モンテカシノ修道院)、11世紀のフランスのっクリュニー修道院運動、シトー派修道会、13世紀の托鉢修道会による改革運動などがある。