はい、今日はここ

古事記、日本書紀とほぼ同じ頃に編纂された常陸国風土記にも出てくる夜刀神(やとのかみ)説話のある神社、愛宕神社です

 

部落の市道から、山でもないのに林道みたいな道(ヤダな~!)を降っていった場所にありました(^_^;)

でも神社前には10台ほど停められる駐車ラインがあり、先ずはホッとしました(^_^)

 

駐車場左手にある鳥居が立つ水場

下が泥なんで濁った感じにも見えますが、こちらは椎井の湧水と言って、泥の下から湧水が湧き出ています

見ての通り透き通った綺麗な水です(^_^)

鹿島の御手洗と同じく、この椎井池のある場所は周辺に高い山もなく

洪積台地と谷津(谷間)と言う地帯なのに、よくこんな湧水が涌くな~!と感心して見ていました(^_^)

 

こちらに夜刀神の説話の説明書き

風土記の原文

 

古老(ふるおきな)のいへらく、石村(いはれ)の玉穂の宮に大八洲(おほやしま)馭(しろ)しめしし天皇(継体天皇)のみ世、人あり。箭括(やはず)の氏の麻多智、郡より西の谷の草原を截(きりはら)ひ、墾闢(ひら)きて新に田に治(は)りき。此の時、夜刀の神、相群れ引率て、悉尽(ことごと)に到来たり。左右に防障(さ)へて、耕佃(たつく)らしむることなし。(俗(くにひと)いはく、蛇を謂ひて夜刀の神と為す。其の形は、蛇の身にして頭に角あり。率引て難を免るる時、見る人あらば、家門を破滅し、子孫継がず。凡て、此の郡の側の郊原(のはら)に甚(いと)多に住めり。)是に、麻多智、大きに怒の情を起こし、甲鎧を着被けて、自身仗(ほこ)を執り、打殺し駈逐らひき。乃ち、山口に至り、標の梲を堺の堀に置て、夜刀の神に告げていひしく、「此より上は神の地と為すことを聴さむ。此より下は人の田と作すべし。今より後、吾、神の祝(はふり)と為りて、永代に敬ひ祭らむ。冀くは、な祟りそ、な恨みそ」といひて、社を設けて、初めて祭りき、といへり。即ち、還(また)、耕田(つくりだ)一十町余を発(おこ)して、麻多智の子孫、相承けて祭を致し、今に至るまで絶えず。其の後、難波の長柄の豊前の大宮に臨軒(あめのしたしろ)しめしし天皇(孝徳天皇)のみ世に至り、壬生連(みぶのむらじ)麿(まろ)、初めて其の谷を占めて、池の堤を築かしめき。時に、夜刀の神、池の辺の椎株に昇り集まり、時を経れども去らず。是に、麿、声を挙げて大言(たけ)びらく、「此の池を修めしむるは、要は民を活かすにあり。何の神、誰の祇(くにつかみ)ぞ、風化(おもむけ)に従はざる」といひて、即ち、役の民に令(おほ)せていひけらく、「目に見る雜の物、魚虫の類は、憚り懼るるところなく、随尽(ことごと)に打殺せ」と言ひ了はる応時(そのとき)、神(あや)しき蛇避け隠りき。謂はゆる其の池は、今、椎井の池と号(なづ)く。池の回に椎株あり。清泉出づれば、井を取りて池に名づく。即ち、香島に向ふ陸の駅道なり。

 

簡単に言うと

この地区を開拓しようとした人たちの前に、夜刀神たち(蛇の化身)が現れて抵抗するも、人間に退治されて

上の台地に祀られたと言う事です(簡単ですが)(^_^;)

泉の脇に建つ「壬生連麿」の像(小さな像です)

ここから、上の神社に向かいます(15mほど登る感じです)

拝殿ですが、風土記に出て来る様な古い由緒ある社殿とは到底思えない

「村の中にある村社」にしか見えません(^_^;)

裏側に廻っても本殿はありません

 

社殿左手の石碑

風土記の原文が刻まれている様です

社殿右奥に、ありました「夜刀神社」(^_^)

最近出来た様な綺麗な鳥居でした

鎮座千五百年記念の歌碑ですね(^_^)

夜刀神伝説と湧水の清水が印象深い神社です(^_^)

地図