1.


またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。(ヨハネ17・22)


「またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。」

ここで、

「わたし」とはイエスである。

「あなた」は「御父」。

御父は、イエスに栄光を与えられた。

これで明らかに御父とイエスは別の人格であるとわかる。

「わたしたちが一つである」

ここで、「わたしたち」は御父とイエスを意味する。

御父とイエスは「一つである」。

別の人格である御父とイエスが「一つ」であるということは、この一致が存在論的ではなく契約的であるとわかる。

ここで、御父とイエスは、


存在論的に「別」だが、契約的に「同一」である


とわかる。

この御父とイエスの関係性は、

「わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。」

から、明らかである。

「彼ら」は弟子たちである。

弟子たちは、それぞれ別の人格である。

しかし、彼らは「一つである」べきである。

この「一つである」は「契約的合一」を意味する。

つまり、この箇所の意味は、


御父とイエスが存在論的に別であるが、契約的に一致しているように、弟子たちも存在論的に別であるが、契約的に一致するためである


となる。

弟子たちの関係性の基礎は、御父とイエスの関係性にある。

人間の存在のあり方の基本は、神の存在のあり方である。

われわれは、次のように思考しなければならない。すなわち、

「神がこれこれなので、人はこれこれでなければならない。」と。

神が聖なので、人も聖でなければならない。

神が義なので、人も義でなければならない。

神が愛なので、人も愛でなければならない。

・・・

神が多数おられるのに契約によって一致しているように、人間も多数いるが契約によって一致すべきだ。

2.


すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水でいっぱいになった。ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」(マルコ4・37-38)


嵐の中、舟の上で慌てていた弟子に対して、イエスは眠っておられた。

なぜイエスは外界に影響されなかったのか。

イエスは、神の絶対的な相互信頼の中にいたからである。

御父と御霊の間にある絶対的な相互信頼の中にいたので、安心しきっていた。


イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。
イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」(マルコ4・39-40)


神の契約的関係は、互いに対する絶対的な忠誠心と愛で結ばれている。

イエスは、神の相互信頼の中におり、それに頼り切っているので、安心して寝ておられたのである。

イエスは、この神の相互関係の中に、われわれを招いてくださった。


父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。
もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。(ヨハネ15・9-10)


われわれは、イエスにあって、神の契約という、完全・絶対の相互信頼関係の中に入った。

われわれは、もはやノンクリスチャンのように荒ぶる波を恐れることはない。

われわれは、「人間への依存」という依存症から解放された。

人からの奉仕や愛を期待しなくなった。

利益や自尊心を満足させるために人を利用しなくなった。

なぜならば、神の契約関係の中にそれを求めることができるから。

われわれにとって、世界の情勢は、ノンクリスチャンにとってのそれではない。

われわれは、神の契約の世界の中で満足できるから。


また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、
夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。(マルコ4・26-27)


われわれは、神の国について心配しない。

神の国は、植物が自然に育つように育つ。

われわれが知らないところで、知らないうちに成長する。

神の国は必ずサタンの国に勝利する。

その方法について心配するのをやめよう。

それは、自然に勝利する。

われわれが知らないうちに勝利する。