父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。(ヨハネ17・24)
御父は御子を「世の始まる前から愛」され、御子に「栄光」を与えておられた。
御父は御民を御子に与えられた。
そして、御子は御父に「あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください」と祈られた。
御子とエクレシア(教会:御民の集合体)は存在論的には別であっても、契約的には一体である。
御子とエクレシアは互いに結婚関係にある。
というのも、私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。(2コリント11・2)
それゆえ、御民は、花嫁として、神のコイノニア(交わり)の中に入っている。
存在論的には、花嫁は、夫の家の一員ではない。血縁がないからである。
しかし、契約的には、彼女は夫の家の一員である。
夫婦別姓は、夫と妻、及び、夫の家族と妻の「契約的合一」を否定する考えであり、異教的である。
妻が夫の家族の一員として迎えられなければ、御民(クリスチャン)が神のコイノニアの一員に迎えられるという聖書の教えを象徴できない。
クリスチャンの群れは、イエス・キリストの花嫁であるがゆえに、神の家族(つまり、三位一体の間の契約的社会)に迎えられたのである。
神は法人であり、三位の神々が一人として「法的に」存在される。
多数の人々が互いに契約を結んで一人の会社を形作り、法的に一人として活動するように、三位の神々も契約を結んで法的に一人として活動される。
その法人である神の共同体の中に、エクレシア(クリスチャンたち)は「イエス・キリストの嫁として」加わる。
われわれエクレシアは、存在論的に神の家族の一員ではないが、法的に一員である。
われわれエクレシアは、旧姓を捨てて、夫であるイエス・キリストの姓を名乗る。
われわれエクレシアは、夫であるイエス・キリストやその家族(御父と御霊)と血縁関係はない(つまり、神ではない)が、夫の姓を名乗る(つまり、信仰を告白しバプテスマと聖餐を受ける)ことによって、契約的に神の家族の一員となる。
われわれは、神のコイノニアの中に入っている。
われわれは、神ではないのに、神の家族の中に入ることができた。
われわれは、全知全能の神の社会において構成員が受けることのできる愛と栄光をすでに受けている。
どうして、人や社会から栄光や愛を受ける必要があるのだろうか。
われわれは、人間に関して、与える側である。
受ける側ではない。
人間から愛や栄光を受けようとする人は、「青い鳥」を追い求めている。
それは、人間からは永遠に受けられない。
いくら愛や名誉を受けても、ますます飢え乾く。
われわれは、神の家族の一員として、すでに愛と栄光を与えられているので、もはや受ける側ではなく、与える側である。