1.

先日、古い段ボール箱を開けたら、神学校の卒論が出てきた。

『聖書律法の今日的意義について』というタイトルで、グレッグ・バーンセンのTheonomy in Christian Ethics(キリスト教倫理における神の法)とInstitutes of Biblical Law(聖書法綱要)を中心資料として、セオノミーについて書いた論文である。

これらの2冊の資料について、Theonomyのほうは、神学校の入学祝いとしてある牧師にプレゼントされ、Institutes of Biblical Lawは、アメリカの長老教会のバーゲンセールでたまたま購入したものである。

Institutesの購入時に、その第二巻Law and Orderも購入した。後で判明したことだが、ゲイリー・ノースによると、これらの3冊はキリスト教再建主義の3大主要著書であった。

私は、まったく再建主義について知識もないときに、偶然にこれらを入手したのである。

2.

大学のゼミの卒論で、ヴァン・ティルについて書いた。

この論文は紛失した。

大学の卒論でヴァン・ティルについて書き、神学校の卒論でセオノミーついて書いた。

振り返ると、自分の人生が御霊によって導かれたことがわかる。

この経緯についてラッシュドゥーニーに書くと「日本においても、御霊が働いている」とコメントが返ってきた。

3.

大学時代の自分の問題意識は「基準は何か?」であった。

ヨーロッパでは長らく、ギリシア化されたキリスト教(ローマ・カトリック)のもとで「自然法」が支配していた。

聖書において、神の創造は「無からの創造」であるが、ローマ・カトリックにおいてそれは「永遠の昔からある自然秩序に追加されたもの」でしかなかった。究極は、自然であって、神ではないと。

つまり、ローマ・カトリックは、実際のところ、「キリスト教に似たギリシア思想」でしかない。

宗教改革運動の中で、カルヴァン及びカルヴァン派の人々は、聖書法を回復した。

17世紀以降、ローマ・カトリックがギリシア思想に妥協して人間理性に与えた「場」がどんどん拡大し、ついにインマヌエル・カントにおいて極大化した。

彼において、その「場」はすべてを飲み込んだ。

カントにおいて、「人間理性が基準だ」との原理が確立された。

カント以降、人間が神となり、聖書すらも人間理性によって評価されるようになった。

人間が勝手に造った倫理基準によって法律すらも改変された。

世界が人間王国化する中で、重大な問題が発生した。

ダーウィンである。

宇宙が進化によって形成された以上、「普遍的な倫理」は完全否定された。

もはや自然法すらも通用しない。

思想に関して言えば、世界は混沌化したまま21世紀に突入した。

4.

進化論を信じる限り、倫理基準は存在しない。

そこにあるのは、弱肉強食、適者生存の原理だけ。

ヒューマニズム(人間教)には、世界を統治する原理は存在しない。

このことが、二度の世界大戦を経験した20世紀に明らかになった。

ヒューマニズムには、絶望しかない。

人類は、ヒューマニズムを捨てて、聖書に立ち返るべきである。

しかし、カント思想に汚染されたキリスト教は、聖書法に帰ることができなかった。

教会人は、「万物を神の啓示によって評価すべき?政治も経済も、全部聖書のとおりに行う?過激だ!」と叫んでいる。

彼らは「ノンクリスチャンだって政治をうまくできる。経済は彼らに任せるほうがいい」と述べる。

この幻想は、最近のDSによる狂気のポリコレ政策によって吹き飛んだ。

世界は「やっぱり、彼らに任せると危険だ」と気づきつつある。

5.

結局のところ、人類は、聖書に帰るだろう。

私の人生は、このような回帰の道ぞなえとして与えられたのだと思う。

人類は、次のソロモンの言葉を告白する以外には道はないだろう。


結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。(伝道者の書12・13)