1.


人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。(マタイ6・1)


もしわれわれが教会(エクレシア)に加わらなければ、われわれにとって「父なる神」は「御父」ではない。

なぜならば、教会は、イエス・キリストの嫁だから。

信仰を告白し、バプテスマを受け、聖餐を受ける人は、教会の一員である。

それゆえ、われわれ一人一人は、キリストの嫁の細胞である。

聖書によれば、夫婦は一心同体なので、イエスが神の三位一体の一員であり、神の社会に所属するならば、われわれもそこに所属している。

それゆえ、われわれにとって御父は「天におられるわれわれの父」なのである。

お嫁さんが、夫の父親を「お父様」と呼ぶように、われわれにとって御父は「父親」である。

お嫁さんにとって夫の父親が「肉親」ではないのと同じように、われわれにとって御父は存在論的には父親ではないが、契約的には父親である。

イエスが弟子たちに「天におられるあなたがたの父」と言われたのは、「御父はわたしにとってだけではなく、あなたがたにとっても父親だ。つまり、あなたがたは神の三位の共同体の中に入っているのだ」と言われたのと同義である。

2.


もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。(ヨハネ15・10)


われわれが、神の三位の共同体の中に居続けるには、戒めを守らなければならない。

「行いによって義と認められる」という教えは誤謬である。

しかし、「不法を行っても大丈夫」という教えも誤謬である。


しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』(マタイ7・23)


教会(エクレシア)に留まる人は、「悔い改めた罪人」だけである。

「神の法を認めます。しかし守れません。イエスの犠牲のゆえに受け入れてください。よろしくお願い申し上げます。」という人は留まることができる。

「私は神の法など関係ないと思っています。これからも神の法を無視して生きていきます。」という人は留まれない。

イエスが神の三位の社会の中に留まることができているのは「御父の命令を守っているから」。


わたしはわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっている


同じように、われわれも、


イエスの戒めを守るなら、イエスの愛にとどまる


では、イエスの戒めとは何か。


わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。
人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。(ヨハネ15・12-13)


イエスを信じる者が、互いに愛し合うこと、これがイエスの戒めである。

神の法は、愛の法である。


「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」
そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
これがたいせつな第一の戒めです。
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」(マタイ22・36-40)


「人を愛しています」と告白する人が平気で十戒を破るはずがない。

「互いに愛し合え」というイエスの戒めの具体的な内容が、律法なのである。

愛に基づく政府は、国民に10%を越える重税を課すはずがないし、LGBTQを容認するはずもない。

ポリティカル・コレクトネスは、社会をイエスから切り離し、憎しみで満たす悪魔的な思想である。

3.

われわれが推進するキリスト教再建運動は、社会を「神の愛の社会」の中に組み込むための運動である。

イエスの嫁であるエクレシア(クリスチャンの総体)が、聖書に基づいて社会を運営することによって、社会全体を「神の愛の社会」の中に組み込むことを目指す。

戒めを守ることは、愛の社会の中に入る前提である。

われわれは、イエスの尊い犠牲によって「のみ」、神の愛の社会の中に留まり続けることができる。

われわれは、戒めを守れないにもかかわらず、イエスの犠牲によって戒めを守ったことにしていただける。