契約的誠実さ。
あなたの神学はキリストが民に対しても誠実である信仰なのですね。しかし御言葉を宣べ伝える教会、つまり御言葉の上に立つ神の子羊が誠実ではなかったのに、どうして民が御言葉を聞くことができるでしょうか。神の口を塞いで別の言葉を並べたのが教会の歴史ですので、民がどうして真の信仰に至れたのでしょうか。それともそれらの人々はあらかじめ地獄に行くことが決まっていたのでしょうか。
神は、御民に対して誠実なので、御言葉を通じてご自身の御心を(人間が知るべき事柄という範囲内で)あますところなく啓示されました。
その啓示された事柄をゆがめたり、人に見せないようにしたのは人間側の瑕疵であって、神に責任はありません。
そして、そのような、神の国の進展を妨害するような邪悪な行為の責任を神にかぶせるのは「ヒューマニズム(人間教)」の立場です。
人間の幸せを中心に価値判断が行われる。
言い換えれば「神は人間を幸せにする責任がある」という立場です。
聖書の神はそのようなお方ではない。
人間は、あくまでも神の幸せに奉仕するために創造された。
だから「罪を犯した人は、その罪のゆえに滅びる」というのが原則です。
「その罪人を救う」キリストの御業は、「義務」ではなく「恩恵」です。
もちろん三位一体と復活を信じる人々ではあるのですが、あなたのおっしゃる厳密な意味での信仰者ではなかったと思います。彼らは聖書を読んだこともなく、司祭の言うままにパンとワインを摂取し、献金し、幼児洗礼をわが子に授けてもらい、結婚を司祭の前で行いましたが、それはローマ人が惰性で祭壇でユピテルの為に牛の脂を焼いていたのと同様です。しかし彼らは責められるべきではないのです。
思い出していただきたいのは民はかつて聖書を自由に読むことすらできなかったということです。ルターが翻訳するまでドイツ語聖書はありませんでした。
聖書を読ませないようにしたのは、教会が人々をコントロールするためです。
それは、教会の罪であって、神の罪ではない。
日本にやってきた外国人が日本語ができないために法律を破った場合に、その責任を日本政府に着せることはできません。
法律違反は法律違反です。日本語ができるかどうかは関係ない。
人間は、読めるような聖書を持っていたか否かにかかわらず、聖書にしるされている事柄(神の法)について責任があります。
人々が読めるような聖書を与えなかった教会側の責任は、人々よりもはるかに大きいです。
しかし、「読めるような聖書がなかったから無罪」ということにはならない。
十戒を破れば(悔い改めない限り)その刑罰は下ります。
以上、かなり詳しく説明いたしましたので、これで回答は終了させていただきます。