あつかましいですが、どうか私が救われるであろうと、いえ、それをご存じなのはキリストのみなのでそれについては考えても仕方がないのですが、私はキリストの業ではなく人間の業について尋ねます。この世の管理を委ねられたのはわれわれアダムの子孫ですから、このことは尋ねるべきだと考えました。

ご存じの通り、ヨハネを除く使徒はみなそれぞれ殺されました。
彼らは地上で滅びましたが、キリストが生命を彼らに授ける日が来るでしょう。


「キリストが生命を彼らに授ける日」はすでに紀元1世紀に来ました。

キリストは「私が再臨するまで生き残っている人がこの中にいる」と言われました。


まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます。」(マタイ16・28)


つまり、再臨は紀元1世紀に起きるとイエスは明言された。

そして、再臨するときに「キリストに属している者の復活」が起きるとパウロは述べています。


しかし、[復活には]おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。
それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。
キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。
最後の敵である死も滅ぼされます。(1コリント15・23-26)


ということは、クリスチャンの復活は紀元1世紀に起きたということがわかります。

殉教した使徒たちは再臨の際に、当時生き残っていた一部のクリスチャンとともに復活し、携挙されたはずです。


眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。
私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。
私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(1テサロニケ4・13-17)


パウロは、紀元1世紀のテサロニケに住むクリスチャンにこのことを約束しているので、復活は紀元1世紀に起きたことがわかります。
 


彼らが残した書簡や手紙は伝承され正典化されました。
われわれは聖書として読みます。神の霊感を受けていると信じます。クリスチャンなら信じるべきだと神父や牧師は言うでしょう。

しかし、聖書を選んで編纂したのは人間です。編纂したローマ人司教たちにも神の霊感が及んでいるなら聖書は完全なものです。ですが、聖書は完全だとしても聖書を編纂した司教たちが完全でないならば、なぜ聖書は完全だと断言できるのでしょうか。


イエスは、パウロを含む13人を使徒として任命されました。

イエスは奇蹟を行う際に、常に弟子たちを2~3人同行されました。

なぜならば、律法に「証言者は2~3人必要だ」と記されているからです。


ふたりの証人または三人の証人の証言によって、死刑に処さなければならない。ひとりの証言で死刑にしてはならない。
どんな咎でも、どんな罪でも、すべて人が犯した罪は、ひとりの証人によっては立証されない。ふたりの証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。(申命記17・6、19・15)

もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。(マタイ18・16)


聖書として選ばれた書物は、すべて「イエスの御業の証言者として任命された直接の目撃者」かその権威のもとに書き記した者の手によっています。


そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、
こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。
あなたがたは、これらのことの証人です。(ルカ24・45-48)


使徒たちには、イエスからの直々のお墨付きがある。

それゆえ、われわれは、彼らの証言書を「神の権威」として受け取らなければなりません。


聖書以外の考えを切り捨てよ、とあなたはおっしゃいます。これは正しいのです。私にも日本由来の思想やギリシア哲学の影響がありますので、それらを切り捨てればいいのだと思います。では聖書を編纂した司教たちのラテン思想、プラトン主義の影響、異教への論駁を通じて不可逆的に摂取した異教の思想の存在を疑わないのはどうなのでしょうか。


イエスが証言者としてお墨付きを与えた使徒たちが書いた物について、編纂者の思想的影響について心配する必要はありません。

さらに言えば、2000年正典として教会の間で維持されてきた書については、「神の契約的誠実さ」という原理から判断すべきです。

つまり、もし2000年正典として教会の間で維持されてきた書が偽りであるとすれば「神は、ご自身の御子を十字架につけるほどに愛された御民が2000年間誤謬に陥ることを許容してこられた不誠実な存在である」と告白することになります。


例えばエイレナイオスはグノーシス思想を論駁しましたが、彼の思想は不可逆的にグノーシス思想に影響されているでしょうか?具体的なグノーシス派異端信者を論破するために学んだグノーシスの思想が彼に影響していないとはどうして言い切れるのですか。アウグスティヌスが同じくマニ教徒を断罪する際に、図らずもマニ教の性善説に対抗して性悪説を唱えたようにです。

もちろんパウロがアテネ人に影響されていると考えるのは馬鹿らしい、エイレナイオスも同じことだ、と言い切ることも可能です。

私は使徒の権威を考えるべきだと思います。パウロは使徒みなに承認されました。しかしエイレナイオスは使徒に承認されたのではなく、ヨハネの弟子ポリュカルポスに私淑したのです。

私がはっきりと知っているのは、このエイレナイオスとテルトゥリアヌスが聖書の正典決定に関与したのだということです。


すでに述べましたように、正典として選ばれた書物はことごとく使徒の手によるものでした。

使徒の手紙や書物が何百冊あろうと、それらは「イエスが証人として正式に任命された人々の書物」であるという理由だけで正典たりえます。

しかし、神は、その中でも新約聖書として人々に残すべき書物を使徒ではない人間を利用して選別されました。

その選別に御霊が働かれたと信じるべきです。

なぜならば「神は御民に対して誠実だから」。

選者の適格性を問題すれば、旧約聖書も信用できなくなります。

しかし、イエスが旧約聖書を神の言葉として承認され、「自分はそれを成就するために来た」と言われた以上、私たちは「選者が適格であるかどうかを無視して」正典として受け取るべきです。


わたしは彼らといっしょにいたとき、あなたがわたしに下さっている御名の中に彼らを保ち、また守りました。彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためです。(ヨハネ17・12)

そこで彼らは互いに言った。「それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」それは、「彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた」という聖書が成就するためであった。

この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。(ヨハネ19・24, 28)


それゆえ、私は最近になって出てきた書物や写本を正典とすることは間違いだと考えます。

神が2000年もの間、御民に隠し事をしてきたはずがありません。

マジョリティ・テキストを採用すべき理由も「神の契約的誠実さ」にあります。

1800年間、ほとんどの教会において使用されてきたこのテキストは、それだけで信頼性があります。

しかし、今世界で使用されている大多数の翻訳聖書は、最近ローマ・カトリック教会の書庫で発見された写本に基づいています。

神は、このような「誤謬」を長期間見過ごしにならない。

必ず人を起こして、正しいテキストを御民に回復してくださるでしょう。


テルトゥリアヌスはかの聖ペルペトゥアを最期まで助けた方です。
残念なことにモンタノスの教えに影響されてしまったので、あなたから見ればテルトゥリアヌスは聖霊を受けていません。エイレナイオスが聖霊の賜物を持っていたかどうかは不明です。

コンスタンティヌス以後、アリウス派は息子コンスタンティウスが信仰するまでに至りました。アタナシオスはこれを神の恵みによって除けたのだとヒエロニムスは信じていました。アリウス派は帝国外のゲルマン人に広まりました。ゴート人やランゴバルド人はアリウス派でした。

聖書が西ローマ教会、カトリックは390年代には正典を定めました。
それより少し前、ミラノにはアンブロシウスという古典や弁論術に通じた知識人がいまいした。アンブロシウスは改宗する前から司教に推挙されました。アンブロシウスはこの西ローマ帝国末期の皇帝に接近することになります。


アタナシウスがアリウス派の教えを退けたのは「真理を継承するために選ばれた器」だからです。

どんなに異端がはびこっても、真理を受け取り、それを広めるための器を神は用意されます。

なぜならば、神の国の発展について一番気を配っておられるのは神ご自身だからです。

われわれが今の聖書を神が認定された正典であると確信できるのは、「神の契約的誠実さ」の事実があるからです。

御言葉というすべての土台について管理できないような神は、神ではありません。