にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。
あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。
同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。
良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。
良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。
わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者が入るのです。
その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』
だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」(マタイ7・15-27)


1.

にせ預言者と本物の預言者の見分け方は、まず「どのような実を結んでいるか」を見る。

彼のもとに集まっている人々はどういう人か。

彼はどのようなことを言っているか。

その教えは、聖書に基づいているか。


私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。


「御名による預言」や「御名による悪霊追い出し」、「御名による奇蹟」は証拠にならない。


しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』


問題は「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう」かどうか。「天におられるわたしの父のみこころを行なう」かどうか。


わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者が入るのです。


「聖書研究ばかりして、伝道していない」と批判する人。

「聖書に何が書いてあるかどうでもいいじゃないか。人が集まらなければ何にもならない」という人。

「聖書に何が書いてあるかどうでもいい」は「御父のみこころなんてどうでもいい」と同義。

こういう「教会成長論者」は、「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」と言われる。

この世でもっとも大切なのは、「御父のみこころ」である。

「とにかく人を集めればいい」という人にとってもっとも大切なのは、「私のみこころ」である。

御父のみこころは、聖書である。

だから、真の預言者は、聖書に何が書いてあるかを重視する。

自分の言葉を発する前に「それに聖書的根拠はあるか?」と自問する。

聖書的根拠がないことを言わない。

何か活動する前に、聖書においてその裏付けはあるかと問う。

私は、聖書研究を重視する人々を揶揄する牧師のもとで働いたことがあるが、「いったいこの牧師の狙いは何か。何のために教会活動しているのか」と常に疑問であった。

最終的に私に向けた台詞は「この日本において、将来のキリスト教社会の制度や法について聖書研究している君たちには不信感を覚えている」であった。

私は卒論でセオノミーについて書いて、その論文を読んだ上で就職を許したので、そのような活動をすることは、想定内であったはず。

なぜ立場を変えたのか。

もし「伝道もせずに聖書研究ばかりしている」というのが理由ならば、それには当たらない。

なぜならば、私は同期の牧師連中の中で一番個人伝道していたからである。

個人伝道で次々と洗礼に導いていた。

2.

聖書研究と伝道は、「あれかこれか」の問題ではない。

聖書研究のない伝道は間違う。

伝道のない聖書研究は無意味。

もし、本当に「御父のみこころ」を最重要視しているのであれば、「聖書的であるか」と自問するはず。

私は、証拠聖句を気にしない教えを唱えないし、また、それを気にしない教えを信用しない。

教えについて「それは、これこれの聖句と矛盾するが」と問いかけて答えられない人は、偽預言者だと考えている。