先日、ある人から失笑ものの皮肉を言われた。

「わたしも、神になって、信者から金を出せと命令しようかしら」

えっ?

「わたしも」?

ということは、私がそれをしていると思っているということ?

私は、一度も「神だ」と言ったこともないし「信者から金を出せと命令」したこともない。

私は「働き人が報酬を得ることは当然だ」とのパウロの言葉を根拠に、自分が提供している情報の代価を求めただけだ。

聖書法綱要やその他の文献を翻訳したが、こちらの労力としては、1千万では足りない。

これらの文献の翻訳には、単に英語の知識だけではなく、神学における専門知識が必要である。

その専門知識を得るために、神学校の学費や、文献の購入費用、それを読むために使った時間、こういった経費を合わせると、その何倍もの負担を負ってきた。

結婚適齢期に、その知識の習得を優先したので、配偶者に恵まれなかった。

こういった有形無形の犠牲の上に文章を発表しているので、私は支払いを求める権利がある。

私のありもしない、しかも、証明もされていない罪(つまり冤罪)を理由に「支援できません」と、砂をかけて出て行ったある家族は、毎日曜日、聖書法綱要の翻訳をテキストに礼拝を行っていた。

あの翻訳にどれだけ苦労したか。

サイトを運営する上で習得したコンピュータの技術(プログラミング)にも、すごい費用がかかっている。

私が神になって信者に命令しているとか、ほんと、失笑ものである。