「キリスト教は『キリストを信じないと救わない』ケチな宗教だ」という人がいる。

これは「あの店は『金を払わないと商品を渡さない』ケチな店だ」というのと同じである。

われわれは、神の御前で無数の罪を犯す者である。

この無数の罪について精算しないままに一生を終えたら、死後の世界でそのツケを払うことになる。

レジを通さないで商品を外に持ち出した人は、万引きGメンに捕まって、代金を払わせられ警察に突き出される。

神は、われわれが死後の世界で自分の罪のツケを払うことがないように、ご自分の御子イエス・キリストを使わし、彼にすべてのわれわれの罪の責任を負わせて処刑された。

これで、われわれはイエス・キリストにあって無罪になった。

これ以外に救われる道はない。

なぜならば、神であり人であるイエス以外に、この身代わりの刑罰を負える人はいないからである。

完全に罪から自由な人はこの世界に一人もいない。

アダムの子孫であるかぎり、すべての人が「生まれながらに罪人」である。

自分が罪人である人が他人の罪を背負うことはできない。

自分は自分の罪のために死ぬからである。

水を含まない布でなければ、水に濡れたテーブルを拭くことはできない。

他人の罪の責任を背負える人は、自分自身に罪がまったくない人でなければならない。

イエスは、罪から完全に自由な人であった。

また、その人は、同時に神でなければ、多くの人の罪を負えない。

一人の善人の命は、一人分の命の値しかない。

完全に聖い人が、一人の人を救っても、それで終わりである。

多くの人々の罪を背負うには、神でなければならない。

無限の神は無数の人々の罪の責任を引き受けることができる。

イエスは、人であると同時に神であられた。

このようなお方は、ほかにはおられない。

だから、キリスト教は「キリスト以外に救いはない」と宣言する。