黙示録では、イエスの敵が2者いると示されている。

すなわち、


(1)大淫婦

(2)獣


である。

大淫婦は、契約違反の民であるイスラエル人を指し、獣は、理性のない異邦人のローマ帝国を指す。

聖書を持ち、聖霊に導かれる人々は「悟りのある人」、聖書も持たず、聖霊にも導かれない人々は「悟りのない人」。

これが、聖書における人間の分類である。

いかに強大な国と文化を持っていたとしても、バビロン、ペルシャ、ギリシア、ローマの人々の帝国は「獣」としてしか扱われない(ダニエル書)。

霊的な事柄に敏感で、長子の権利を重んじたヤコブには毛がなく、逆に、霊的な事柄に鈍感で、それを一杯の煮物と交換したエサウは毛深かった。

これは、霊的な事柄に鈍感な人が「動物に近い」ということを暗示している。


肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。(ローマ8・5)


私は、クリスチャンになってから、霊的な事柄が四六時中頭を支配してきた。

そのため、ラッシュドゥーニーの著書を紹介したときに教会の人々から返ってきた無関心に驚いた。

「みんな私のように、世俗文化とクリスチャンや教会生活の関係について興味があるはずだ」と思っていたが、まったく違っていた。

「世俗の文化や歴史を聖書からどう考えたらいいのだろう」という疑問を持っていたのは私だけだった。

「政治や経済についてクリスチャンはどのように考えたらいいのだろう」と悩んでいたのは、私だけだった。

「ああ、そうか。一般のクリスチャンは、自分の生活や仕事で頭がいっぱいになっているのか」と後になってわかった。

「もし神が万物の創造者であり、万物の支配者であるならば、どのような政治や経済が聖書的なのだろう」なんて疑問は持つ余裕がないと。

しかも、私は、主任牧師からこう言われた。

「このクリスチャンの少ない日本において、未来のキリスト教社会の制度や法律について考える君たちには不信感を覚えている」と。

まさに驚天動地であった。

「え~~~!聖書が教える『あるべき社会の姿』について学んだり議論することが、不信感の種になる???」

暗闇を航海している船員にとって、近くのことも大切だが、遠くの灯台について知ることも大切はなず。

なんで聖書に記されている神の啓示について興味を持ってはいけないのだろうか。

「全体から細部へ」「細部から全体へ」という知識の獲得の方法は、基本である。

聖書の全体像をつかむことは、聖書の細部について知ることにつながらないわけがない。

逆に、聖書の細部の知識は、聖書の全体像を知ることにつながらないわけがない。

私は、全体像をつかむことによって、細部の間違いを訂正することになると考えているので、聖書が教える政治や経済について知りたいと思っている。

日本人にはクリスチャンが少ないということと、そういった知識を獲得する努力との間にいかなる矛盾もない。

むしろ私は、正しい教えこそが、日本人をクリスチャンにすると考える。

わけのわからない神秘主義や熱狂主義によって日本人が変わるとは思わない。

クリスチャンが聖書や神学についていつまでも無知であることこそが、伝道が進まない最大の障壁であると考える。

日本人はノーベル賞を何十人も出す民族なのだから、きちんとした知識を提供すれば、理解できる。

「頭でっかち」とかなんとか言って批判する人は、自分自身が無知である。

ちゃんとした教育を受けた人は、大学教育を批判しないのと同じように、ちゃんとした知識を持っている人は、神学の知識をバカにしない。