堕落によって、人間の目は歪んだ。

生まれながらの人間は、物事を歪んで見ている。

霊的な事柄については、完全に視力を失った。

それゆえ、神について、救いについて、霊について、・・・、生来の人間は完全に無知である。

神は、御霊の働きにより、人を生まれ変わらせ、自然的な事柄については「矯正用眼鏡」を、霊的な事柄については「新しい視力」をお与えになる。

この「矯正用眼鏡」とは「聖書(外的啓示)」と「聖霊(内的啓示)」である。

御霊が聖書を解説し、われわれに内側から教えてくださる。

この二つがそろわないと、矯正は不可能である。

霊的な知識については、神は「視神経・視細胞」を新たに創造される。

堕落とともに完全に視神経と視細胞は死んだので、移植が必要である。

クリスチャンになると、霊的な事柄について「完全に開眼する」。

信仰は「完全な賜物」であり、「与えられない限り持てない」。

自分で努力して得られるようなものではない。

神がよしとされた人だけに、特別に与えられるものである。

神が信仰を与えようとされた人に、神は「ふさわしい時に」信仰をお与えになる。

信仰が与えられると、聖書を受け入れられるようになる。

「神を信じています」と言いながら、聖書の正しい教理を拒む人は、本当は信仰を持っていないのである。

信仰を与えられていないので、聖書を正しく解釈できないのである。

「救いは神と人の共同作業である」と信じるペラギウス主義者や半ペラギウス主義者は、「クリスチャンになったつもりになっているノンクリスチャン」である。

彼らは、「信仰は純粋な賜物であり一方的な恵みである」という予定論を否定する。

「律法は廃棄され、現在では無用である」と唱える無律法主義者も同じである。

信仰は、神から与えられるものであるから、聖書の教理を拒むことは、絶対にない。

再建主義が唱えている「伝統的な宗教改革主義者の教え」を拒むこともあり得ない。

それゆえ、われわれと出会う人は、試金石と出会った鉱物のようなものである。

試金石と出会う前は、「私は金です」と言えたが、試金石で試されて単なる磨かれた銅でしかないとバレる。

われわれと出会う人は、祝福と呪いのいずれかを選び採るように強制される。

再建主義を受け入れれば「神からの賜物である信仰を持っている」と証明されるので、祝福され、拒めば呪われる。

「天国行きの切符だけもらえればいい。地を従えよ?そんな教えはいらない。」というような人は「神から信仰を与えられていない」のである。

だから、天国に行けるわけがない。