だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(2コリント5・17)
この聖句にあるように、クリスチャンになると「新しく造られた者」になった。
「すべてが新しくな」った。
それまでとまったく違って世界が見える。
クリスチャンは、道ばたの花を見ると「神の美意識」を感じる。
どの画家も出せない「微妙な色合い」を感じる。
そして「ああ、神様、このように花を『超自然的に』美しく作ってくださってありがとうございます。」と祈る。
ノンクリスチャンのときには、このような考え方はしなかった。
ノンクリスチャンのときは、花が美しいのは「あたりまえ」だった。
しかし、クリスチャンになると、花は「造られた物」に見える。
そして、すべてについて感謝したくなる。
クリスチャンは、死んでいた者が蘇ったのである。
蘇ったので、すべてが新しい。
だから、ノンクリスチャンとは、同じ知識の土台を共有できない。
同じものを見ても、まったく違う解釈をするからである。
クリスチャンの学問は、ノンクリスチャンのそれとは異質なのである。
目的も方法も価値付けも違う。
クリスチャンとノンクリスチャンのどちらの学問が正当なのだろうか。
もちろん、クリスチャンのである。
なぜならば、それは「創造者のお墨付きをもらっているから」である。
創造者である聖書の神が是認された科学だけが「正当な科学」である。
ノンクリスチャンの科学は、神のお墨付きを得ていない偽物の科学である。
「それでは、クリスチャンはノンクリスチャンが獲得した知識や技術をすべて拒否しなければならないのか?」と尋ねる人がいるかもしれない。
「ノー」である。
クリスチャンは、彼らの業績を利用できる。
しかし、彼らの業績をそのまま利用できない。
なぜならば、彼らの知識の根底には「聖書の神を拒否する動機」があるから。
クリスチャンは、彼らの業績を「聖書的知識の体系に組み込む」のである。
つまり、正しい意味を与えてあげる。
クリスチャンによって、聖書に基づいて再解釈されたものだけが「正しい知識」である。
玉石混淆の世界の中で、あくまでも残るのは、聖書的クリスチャンが選んだ物だけである。
天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。
また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。
すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。
また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。
網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。
この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、
火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
あなたがたは、これらのことがみなわかりましたか。」彼らは「はい」とイエスに言った。
そこで、イエスは言われた。「だから、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです。」(マタイ13・44-52)
世は「信仰なんて学問と関係ない」と考えるが、われわれはそのように考えない。
クリスチャンは「自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人」にならねばならない。
権威は聖書にある。
クリスチャンは、聖書にしたがって、世にあるすべてのものを判断し、正しいものを選り分けて受け入れるべきである。
「おまえは政治の専門家ではないから口を出すべきではない」と言われたことがある。
しかし、私はクリスチャンなので、ノンクリスチャンの政治の専門家の意見を選択する権威がある。
正しいか間違っているかジャッジする権威を神に与えられたのである。
天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです
カルヴァン主義神学者アブラハム・カイパーは、再生者と非再生者を「2種類の人間」と分類し、両者の科学を互いに異なる「2種類の科学」と分類した。
そして、再生者の認識と非再生者の認識を「対立するもの」として描いた。
クリスチャンの科学とノンクリスチャンの科学は対立するものであるから、一方が妥協すると他方に飲まれる。
クリスチャン側は「万物を創造されたものと見、神の御心にしたがって統治する対象として扱う」という原則を失ったら、ノンクリスチャンの科学に飲み込まれ、クリスチャンの使命はそこにおいて途絶える。
クリスチャンはこの世界にあって、無用・無価値な存在になり、切り捨てられる。
あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです(マタイ5・13)
われわれは、自分たちこそが「知識に関して神の権威を帯びている」と自覚し、「われわれこそが正当な学問を行っている」と自負すべきである。
ノンクリスチャンの学界に受け入れられなくても何も問題はない。
ノンクリスチャンと妥協する人は、塩気を失った塩である。
その国において、神の国の発展は、期待できない。