結語

神の律法は、旧約時代のみならず新約時代においても有効である。それは、人間が神によって創造され、神の栄光を現すためにのみ存在しているという意味で、あらゆる時代、あらゆる場所に居る人々が守らねばならない絶対的基準である。すべての領域は、神によって創られたがゆえに、常に神の定められた諸々の法によって治められなければならない。再生者は、あらゆる領域において、神の律法の支配を徹底させ、神の主権を確立しなければならない。そうする時に、人間社会は真の繁栄を獲得し、形式と自由が並立する豊かな社会になることが可能である。しかし、堕落後の崩壊性の中における被造世界は、完全なる回復をキリストの再臨にまで待たねばならない。再生者の使命は、この世の崩壊性・無秩序化を防ぎ、律法によって光を照らして進むべき道を示すことである。発展性とともに、その限界もわきまえるという意味で、神の元において、我々はすべての栄光を神に帰することができる。

神の啓示は、人間の救済をその最終目的とはしていない。人間の作られた目的は永遠に、神の国建設の遂行にある。「また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分の為にではなく、自分のために死んでよみがえった方の為に生きるためなのです。」(第2コリント5:15)神のために生きること、これは、律法に基づく社会建設に他ならない。それは、人間理性ではなく、キリストが、主権者として立つ社会の建設である。創造された世界の中で一つとして、キリストの主権性を認めない領域が残っていてはならない。社会の全領域において、神の主権と神の栄光の原理が支配するために、再生者は最善の努力をしなければならない。「神の国とその義をまず第一に求めなさい。」我々は、神の律法に従わない全ての企てを打ち砕き、神の国の確立のために全身全霊をもって努力しなければならない。



1. 参照 R.J. Rushdoony, The Foundation Of Social Order: Studies In The Creeds And Council Of The Early Church, P and R Publishing Company, 1968.
2. ローマ13:1ー5
3. James Hastings Nichols, History of Christianity 1650-1950: Secularization Of The West (New York: The Rhode Island Press Company, 1956, Pp. 6 - 8.) cited in 'Theonomy In Christian Ethics' pp. 4-5.
4. 参照 E. L. Hebben Taylor, The Christian Philosophy of Law, Politics and the State: A Study of Political and Legal Thought of Herman Dooyewerd of the Free University of Amsterdam, Holland as the Basis for Christian Action in the English-Speaking World (Nutley, New Jersey, the Craig press, 1969), p. 6. (Cf. pp. 238 - 243) cited in Bahnsen's 'Theonomy In Christian Ethics' p. 7.
5. Ibid.
6. エレミヤ32:35、第1サムエル 8 章など。
7. このことは戦前の日本における天皇制についても適用できるのではないだろうか。「(日本の)伝統の実体化は、・・・天皇制国家という疑似的な絶対に依拠する体系構築の試みとして顕現したのである。それらは、真実の「絶対性」ないし「絶対者」を背後に持たぬ伝統の自己肯定、ないしは体系の構築であるがゆえに、その社会的な対応物として、地上的な外的権威を想定するか、あるいは要請せざるを得なかった。真実の「絶対性」ないし「絶対者」を背後に持たぬ、有限な人間による伝統の自己肯定、もしくは哲学体系の樹立が、いかに誤り多く罪深いものであるか私は学んだつもりである。」(宮川透、日本精神史への序論、紀伊国屋書店、1977、p.9)
8. ジョン・ロックは、(後にも述べられるが)、自然法を神の意志として定義し、政治的な法は、自然法に基づいて作られなければならないと言っている。「立法者が他人の行動のために作る規則は、立法者自身の行動およびその他の人々の行動と同じように、自然法、即ち神の意志に合致しなければならない。自然法とは神の意志の表明だからである。そして自然法の根本は人間の保全にあるのだから、人間が作るどのような法の制裁も、これに背くときは、正当でも有効でもあり得ない。」(『統治論』(135))神の意志が政治的領域法を規定するべきであるとの考えについては、ピューリタンの両親の元に育った彼の思想形成へのカルビニズムの影響を見ることができる。しかし、自然法における神の意志とは、すべての人間の心に書かれたものであって、再生を必要とせず、又、外形に書かれた神の律法(啓示)の必要を認めなかった点で理性の自立を許す近代ヒューマニズムの域をでなかったと言わねばならない。
9. 優生学は、進化論の影響を受けた学問で、「人類の遺伝的素質を改善する目的で、配偶者の選択などにより、悪質の遺伝形質を淘汰し、優良なものを保存することを研究する。」(広辞苑、岩波書店、第2版)優生保護法は、この優生学の立場から「不良な出生を防止し、母体保護を目的とする法律。」(同上)優生保護法第14条第1項(「妊娠の継続又は分娩が身体的又は経済的理由により、母体の健康を著しく害する恐れのあるものは、その妊娠を中絶できる。」)の中には、遺伝的に優生のもののみを保護しようという思想が根本にあり、優生であろうがなかろうが「殺すなかれ」という神の律法に反する法である。
10. 1984年の統計によると、公式的発表では約57万件であるが、闇堕胎を含めると約200万件と推定されている。これはその年の出生数とほぼ同数なので、2人に一人の割合で胎児が殺されているということになる。
11. 映画「サルバドル遥かなる日々」(1986年)において、監督オリバー・ストーンは、エルサルバドル内乱において、反逆者や不賛同者を容赦なく虐殺する軍隊「死の分隊」を操る、残虐で抑圧的な政府を告発し、さらに、反共産主義の理由の元に、この政府に不断の軍事援助を与えているアメリカ合衆国の悪を暴露している。又、同監督の1987年のアカデミー賞作品「プラトーン」においては、力を過信し、正義を無視したアメリカの驕りが、ベトナム戦争の敗北の原因だと、登場人物に語らせている。
12. 平野耿、「法」、現代哲学事典、講談社新書、p.554参照
13. Rousas John Rushdoony, The Institutes of Biblical Law, P & R, 1983, p. 239.
14. Rushdoonyは、理性が立法者として究極的位置を占める時、それは神になると言っている。「法は、どの文化においても、起源において宗教的である。なぜならば、法は人と社会とを支配するからである。法は、正義と公正の意義を定め、それを宣言するのであるから、不可避的に宗教的である。・・・次に、どの文化においても、法の制定者はその社会の神であるということが認識されねばならない。もし、法がその制定者として人間理性を据えるなら、人間理性はその社会の神となる。・・・毛沢東は次のように言った。「我々の神とは、中国人民大衆に他ならない」と。西洋文明においては、法は着実に、神から民衆(もしくは国家)にその制定者を変えてしまった。西洋の歴史的な力とバイタリティーの源が聖書信仰と律法にあったにもかかわらずである。」(Ibid., pp.4-5.)
15. 「・・・法が教会、国家、学校、又は、家族において、人々に道徳的な命令を発しないならば、法は破壊され、二つの可能性が現れる。第一は、結果としての無政府状態である。我々は、家庭生活、ビジネスの世界、又は、国家において、無政府状態が支配していることに驚いてはならない。・・・人々は、倫理を持たない法律には服従しないものである。多くの子供達は、両親の権威に対して反抗的である。しかし、あまりにも多くの親たちは、ヒューマニストなので、服従を命ずるための倫理的根拠を持たないのである。そして、自分たちの内にあるアナーキズムを子どもたちに伝授している。・・・
公立学校に子どもたちを通わせているクリスチャンの親たちは、自らの信仰を否定し、倫理的なアナーキズムを教えてもらうために、彼らを送り出しているようなものである。この倫理的アナーキズムは、ビジネスや雇用関係を含む、すべての領域に広がっている。
第二は、道徳的・倫理的アナーキズムに汚染されない人々に待っている、むき出しの強制力―テロ―である。
カール・マルクスは、理論上、いかなる思想もアナーキズムを阻止できないことを悟っていた。彼は、実用主義的観点から、アナーキズムを排し、結束力(solidarity)が必要であると考えた。この結果、彼はコミュニズムを選んだのであった。しかしながら、マルキシズムは、道徳的アナーキズムを宣伝していた(人間を支配する道徳的な存在は居ないという意味で――筆者注)。
結果として、レーニンがすぐ看破したように、活動的マルキストの論理的帰結とは、テロリズムの実行であった。このようにして、赤いテロリストは、道徳的強制者に取って代わる、必要かつ充分な代理者となったのである。・・・倫理的規律のないところにはテロがある。もし人が神に従わなければ、人にも従わないものだ。彼らは、秩序維持のために必要不可欠のものとして、絞首台や銃を求めるだろう。彼らが無律法的態度で作った彼らの新しい秩序への反抗は、同じように無律法主義的な倫理など全くない反抗である。・・・この反抗には、一つの運命が待っている。即ち、殺すことと、殺されることである。」(R.J.Rushdoony, Ibid., p.621.)

16. F・シェーファー、それではいかに生きるべきか:西洋文化と思想の興亡、いのちのことば社、p. 108 参照
17. 稲垣久和、現代社会をどう生きるか、いのちのことば社、p.26 参照
18. Ibid., p.46
19. R.J. Rushdoony, Ibid., p.621.
20. 織田昭、新約聖書ギリシャ語小辞典第3版、(1976年)、大阪聖書学院、αλλα
21. Herman N. Ridderbos, When The Time Had Fully Come: Studies In New Testament Theology, Paideia/Premier, 1982, p. 42
22. Ibid., p. 37.
23. O. Palmer Robertson, The Christ of the Covenant, P & R, 1985, p. 190.
24. P. E. Hughes, Paul’s Second Episode To The Corinthians, Eerdmands Publishing Company, 1962, pp. 96 cited in "Theonomy in Christian Ethics", pp. 171 - 172.
25. ルターは律法と福音を対立的に置き、律法の代わりに自然法を、新約時代のクリスチャンの行動の規範としておいた。(参照・Rushdoony, Ibid., p.651)
26. R.J. Rushdoony, Van Til, p.33. cited by Kohei Watanabe in his "カルヴァンとカルビニストたち"、小峯書店、1977年、p. 119.
27. 27.参照・渡辺公平、カルヴァンとカルビニストたち、小峯書店、pp. 227-8, 251-2.
28. 科学革命はこの良い実例であろう。近代以前に支配的であった、ギリシャ的な権威主義的科学観が近代において諸領域で乗り越えられていった過程を科学革命というが、これは方法論における革命であって、自然に対する基本的な考えかたにそれほど変化がなかったという点は知識に値する。ギリシャ、ローマ、アラビア、中世ラテン世界を通じて、自然の秩序に対する信頼と、自然の秩序を把握する側の人間の知性に対する信頼において、変化はなかった。しかし、近代科学の理論体系の成立のためには、古代の精緻な理論体系が一度疑いの中に置かれ、仮説演繹法と実験的方法との組み合わせによって、法則が演繹的に導き出されることをやめ、帰納法的に導き出される方法論的革命が必要であった。近代の科学者はこの方法論の確立により、自然の中に働く秩序を客観的に正しく把握し、法則として体系化していった。この方法論の革命に大きく貢献したのが、フランシス・ベーコンであるが、彼は「ノヴム・オルガヌム・シエンティアルム」(1620年)の中で次のように言っている。「人間は堕落により、清浄な状態からも、被造物を治める状態からも落ちてしまった。しかし、これら失われたもののある部分は、共にこの世にあって取り戻すことができる。 即ち前者は宗教と信仰によって、そして後者は芸術と科学によって。」ベーコンにとって、科学とは被造物支配の道具であった。そして、これは、実験と観測によって、法則を帰納法的に発見し、その法則を適用することによって可能であった。f・シェーファーは次のように言っている。「全てのものは神によって創造された。そしてそれらは人々の探求に対して開かれていた。神ご自身は人間に、自然を治めるようにと告げている。・・・人間にとって科学はそのためのものであった。」(F・シェーファー、それでは如何に生きるべきか、いのちのことば社、p.140)
29. R.J. Rushdoony, Ibid., 724-5.
30. 入船尊、日本におけるカルビニズムの確立、(『カルヴァンを継ぐ者20)すぐ書房、p.10)
31. 渡辺公平、全継承、pp.210-211.
32. これは本稿 pp.54―66にて論証される。
33. ゲルハルダス・ヴォス、「改革派神学における契約の教理」(「神の契約」整形授産所、pp.30―31.)
34. 参照・The Zondervan's Pictoral Encyclopedia of the Bible, "Fall", p.493.)
35. Thayer's Greek-English Lexicon of the New Testament, Baker "αποκαλυψιs."
36. John Murray, The New International Commentary On New Testament, 'The Episode To The Romans', Eerdmands Publishing Company, pp. 302-303 Note.
37. G. Bahnsen, Ibid., p.486.
38. 聖書において、祝福は律法と結びついている。それは、律法も祝福も同じ契約の中に含まれ、互いに不可分離的に結合しているからである。申命記28章は、律法遵守と祝福、律法違反と呪いが、神とイスラエル人との契約の中に密接な関係を持っていることを示している。「もし、あなたが、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、今日、あなたに命じる主のすべての命令を守り行うなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高くあげよう。あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。・・・もしあなたが、あなたの神、主の御声に聞き従わず、私が、今日、命じる主のすべての命令とおきてとを守り行わないなら、次のすべての呪いがあなたに臨み、あなたは呪われる。あなたは町にあっても、野にあっても呪われる。」(申命記28:1-2, 15-16)
このことは、旧約時代のみならず新約時代においても真実である。パウロの深い喜びは、神の律法の中にあった(ローマ7:22)。キリストにおいても律法は喜びであった(ヘブル10:7)。ヤコブは、律法を守り行う人は、その行いによって祝福されると言っている。(ヤコブ1:25)。主も「この世にあってそのいく倍かを受けないものはなく、後の世で永遠の命を受けないものはありません。」と言うことで、現世における霊的もしくは物質的祝福について言及しておられる。パウロは第1テモテ4:8にて、「今の命と未来の命が約束されている敬虔は、すべてに有益です」と言い、現世的祝福の事実を認めている。逆に、このことは、さばきについても同様である。律法を破ることによって、神の懲らしめがある。「御体をわきまえないで飲み食いするならば、その飲み食いが自分を裁くことになります。そのために、あなた方の中に弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大勢います。」(第1コリント11:29―30)
「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。このようなことのために、神の怒りが{不従順の子らの上に}下るのです。」(コロサイ3・5-6)
律法はそれ自身が祝福であるが、それを守り行うことは、神を崇める人々にとって大きな祝福になる。律法が国民にとって無視される時、正義は覆され、邪悪なことがはびこる(ハバクク1:40)。逆に、豊かで繁栄する聖なる人々は、神によって導かれる国家の目標である(箴言14:28―35参照)。「正義は国民を高め、罪はすべての人の対面を傷つける。」(箴言14:34)王は正義を行うことによって、国を安定して統治することができる(箴言29:4)なぜなら、正義が支配することによる効果は平和と安全だからである(イザヤ32:17、参照・詩篇37:30―37)。一つの国が祝福を受けるか呪いを受けるかは、神の法を守るか守らないかによる(申命記11:26)。もし国が神の御意に正しく応答するならば、律法は死、悪、呪いのいずれもたらさない。むしろ、それは、彼らの生活を向上させ、祝福と良いことを増し加えるのである(申命記30:15、19)。我々は、律法の一面だけを見て、律法を断罪者、悪いことをもたらすものと見るべきではない。神は「律法は民の幸せのために与えられた」と仰る(申命記10:13、6:24)。神の律法を守る人々に与えられる諸々の約束は、さながら天国のようなものである。そして、このような祝福の数々は、終わりの日に来る新天新地において、完全に実現される。しかし、神に従う人々に与えられる天的祝福は、決して我々がこの地上で神の約束を期待できないように働くものではない。
神はご自分のみ言葉に真実なお方であり、神と神の律法に栄光を帰する人々を豊かに恵んでくださるであろう。もし、我々が、「天国に行く前にそのような祝福があるはずはない。」と言って、祝福を拒むならば、それは愚かと言わねばならない。それは、悲観主義的な反抗的態度である。なぜならば、主の再臨の前にある繁栄や祝福の約束が、み言葉の中には溢れるほどあるからである(民数記14:21、詩篇2:8、22:27、47、2―8、72:7ー11、17、86:9、110:1、イザヤ2:2、11:9、35:1、45:22、65:20、エレミヤ31:34、エゼキエル47:1ー5、ダニエル2:35、44、ゼカリヤ9:10、マタイ6:33、13:33、28:18―20、黙示録19章)
確かに、完全なる祝福は、来るべき世において与えられるだろうが(なぜならば、神への完全なる服従がそこで可能だから)又、神の律法を守り通すことによって、地上の天国を作り上げることは我々にはできないが、それにも関わらず、主は我々にこう祈るように命じておられる。
「御国が来ますように。御心が天で行われるように、地上でも行われますように」(マタイ6:10)
御心に従う人々への祝福は、天国の前味である。律法はそれ自身祝福であるだけではなく、それを守り行う者に、大きな祝福を与える。律法は、キリストに贖われた人々にとって、決して重荷にはならない(申命記30:11―14)。