事実、同じ律法が旧約聖書と新約聖書において主張されている(申命記25:4、第1コリント9:9、第1テモテ5:18)のである。新約時代において、もはや律法の外的提示は不要になったということは、決してできない。この主張は、ルターが旧約律法を否定したことによって、自然法を導入したように、25 自然法に道を開ける危険性を持っているといえよう。

それでは、ユダヤ人に与えられた様々な儀式を規定する律法(いわゆる儀式律法)も、新約時代のクリスチャンに有効なのであろうかという疑問が生じる。確かに聖書は、キリストの到来とともに、キリストという「実体」の「陰」である儀式律法は不要だと述べている(ヘブル10:8―9)。しかしこの律法が指し示す実質は、キリストの贖いの御業と契約の民との諸々の関係なのであるから、キリストによって、その実質は明らかになって外形は失われうるとしても、この実質は永遠の価値を持つ真理として残る。この意味で儀式律法と言えども、廃棄されたわけではなく、その意義と目的は永遠に有効なのである。カルヴァンは次のように言っている。

「キリストは来臨によって儀式を終わらせたが、この儀式の神聖さを少しでも低めることはせず、かえってこれを推奨し、高め給うた。・・・我々は、儀式が廃止されることにおいて、真理がいよいよ明らかに輝き出るのを見る。」(綱要II・7・16)

我々は、模型ではなく、本体を得たのであるから、もはや、模型は不要になった。新約時代のクリスチャンはこれらの旧約の儀式律法を字句どおり守るべきではないが、その中にある実質的な意義と目的を学び取り、その神のみ心に従わねばならない。

以上、IIにおいて我々は、律法の今日における有効性について「新約時代であっても、旧約律法は少しも低められたり廃棄されたりせず、それは、すべての人が守るべき神の命令であり、神によって創られたすべての人間の正しい生活の唯一の基準であることを見た。

III

神は、人間を創造された時に、被造物を支配しそれを神の御意の元に管理するように命ぜられた(創世記1:28)。これを文化命令(cultural mandate)と呼ぶ。神は、全被造物に対して創造者としての至上権を持ち、すべての被造物はただ神のために存在するように組織されている(コロサイ1:16―17)。従って、この宇宙の中に、神と関係しない領域は一つもなく、ヴァン・ティルが言うように灰色的な(neutral)存在というものは一つも存在しない。すべてが、神という人格的存在に取り囲まれているという意味で、この宇宙は人格的宇宙と呼ぶことができる。26

この人格的宇宙は、神の定められた法秩序の下にあり、この法によって万物はそれぞれの存在意義(ドーイウェールトはこれを「意味(zin, meaning)」と呼ぶ)を持つ。

従って、法の元にあって宇宙は統一されておりいかなる分野においても、法の支配しない領域はないし、これゆえにすべての領域は自己充足性を持たず、神の主権に服している。このことをドーイウェールトは、神の創造された万物(cosmos)が神の法(law)の秩序(order)の元に置かれているという事実を示す理念(idea)として、cosmonomic-ideaと呼んだ。

彼は「法理念の哲学」(De Wijsbegeerte der Wetsidee, 1935-1936)で、このcosmonomic-ideaを展開し、全ての被造物の持つ法を中心とした領域主権性の思想を表している。宇宙には種々なる「法」があり、各々はそれぞれ特殊性をもって法領域(law-sphere)を作る。そして、これら種々なる法領域には一つの「秩序」(order)があるという。これら諸領域は、各々主権的であり、各領域は、それぞれの個別的な「法」と「意味」とを持ち、一つの領域の法(以下「領域法」と呼ぶ)は、他の領域法と同じように適用されないという。

「数」は「空間」に還元され得ず、「空間」は「数」から導出され得ない。このことは、他のすべての法領域にも同様に言える。そしてこれら諸領域は決して絶対的主権性を持たず、神における根源的主権性に対して、派生的相対的主権性を持つに過ぎない。それゆえ、全体としての法領域がそうであるように、一領域にせよ自己充足性は帰せられず、絶対化も許されない。ドーイウェールトは、この宇宙の「意味」としての存在の様態を「法」の元に15領域に分け、宇宙全体が一つの秩序をもつ統一体として宇宙論を形成している。そして彼は「これら諸領域は、神より与えられた文化命令の遂行のために、各々の固有の「意味」実現のために進みゆくべきである」という。27

ここで、法領域の分類について論ずるつもりはないが、神の被造物支配の代理者としての人間が宇宙に対し、「法」を中心としてかかわってゆくという基礎が与えられたということは、大きな意味を持つと思われる。

神は、宇宙を法によって支配し、管理しておられる。唯一の人格的被造物である人間は天地の管理者として神によって立てられている。それは、単に被造物を見護るという意味ではない。被造世界の中に存在する、それぞれの領域法を発見しそれを抽出し、さらに適用し、応用することによって、被造世界が神の栄光を現すために発展し、繁栄するように働くという意味である。28

「法は地を従え、すべてのものを神の支配の元に置くという文化命令の実行のためのプログラムであり、植物、動物、人、そして神の目的達成のための諸制度を進展させる、神の定められた手段である。」29

どの人でも、どの時代にあっても、人間は神に従い、自分自身を向上させ、神の定められた法に従って自らを聖化しなければならない。そして、法を用いて被造世界に働きかけ

神の主権を確立し神の国を進展させるために働かなければならない。また、すべて神の主権に反抗する敵を征服しなければならい。

「私たちは、様々の思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、全てのはかりごとを虜にして、キリストに服従させ、又、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。」(第2コリント10:5ー6)
人間は堕落した時から神の法に服さず、自律的な領域を作った。人間が神に服従せずに作る文化もすべて自律的文化(autonomous culture)であり、神の国の進展を阻害し、破壊するサタンの国の文化である。

「・・・サタンをその首領として、極めて大規模に組織されているように見え、しかも大きな実力(エペソ6:12)を有する霊的悪の勢力は、まだ贖われていない人類の命を支配している。・・・サタンは神の国に敵対する王国を支配している。」(Everett F. Harrison, Baker's Dictionary of Theology, "World.")

再生していない人間は、霊的能力を失っているので、神との交流ができず、神の霊的な力を受けることもない。それゆえ、アダムがサタンの誘惑に負けて以来、人間は、サタンの支配下にあり、キリストの復活の力によって勝利しない限り、サタンの言いなりになって、神に反抗し続けるのである(ローマ8:7)。

堕落した人間が企図し、実行する全ての営為の根元には、神からの逃避と神の律法への不服従が動機としてある(創世記11:4)。そこでは、神の律法の支配する神の国とは別に、人間の理性の自律的支配に基づく人間王国の建設が最終目標である。
「人間は万物の尺度であると言われたように、人間を究極的な存在かつ中心と見るヒューマニズムは、ギリシャ的思考とともに古い。

・・・しかし聖書の光に照らしてみるならば、創造された状態の人間は、神の下にいて神を究極的尺度、解釈者と見る、神中心の人生に生きる者である。

では堕落は人間に何をもたらしたのか。それは神へのは背反であり、神の座に人間を置くことを意味した。堕落はまさに人生観と世界観に転倒をもたらす。神なきヒューマニズムにおいては、人間が究極的解釈者であると同時に究極的決定者でもあり、人間が人間であるが故に重んじられ、意義づけられる。」30

人間が堕落前のアダムに与えられていた、神の代理的為政者(vicegerent)としての地位は、キリストの来臨によって回復された。キリストによって贖われた者には、再び神の国建設の使命が与えられている(第2コリント5:15、第1コリント6:20、10:31)

再生した人間は、神の律法を守り行うことができるようになり、この律法によって世界を神のために作り変えていくことができる。

神の律法は、モーセにおいて与えられ、預言者、キリスト、使徒たちによって確立され、広げられた。この律法は、全ての人間が守らなければならない道徳の唯一絶対の基準であり、他の領域法はこの基準に立つ時にのみ価値を持つ。人間は再生され、神のために生まれることを自覚する時に、真の「労働する存在」となる。たとえ、芸術の世界や科学の世界でそれぞれの領域における法をよく知り、生かすことが出来ても、神のためになすことをしないならば、人間は、良き芸術家または良き科学者となることはできない。神が聖書において示しておられる道徳的基準は、人間の心と関係している。神がアダムに対して、一つの禁止命令を与えられた(創世記2:17)ことは、人が神に向かっている時に初めて文化命令を遂行しうる正常な人間であるということを示している。ローマ1:21には、「彼らは神を知っていながら、その神を神として崇めず」とあり、人間が神を知りつつも、神に帰すべきものを神に帰せず、神を度外視して全ての生活を営もうと言う人間精神の異常さを物語っている。

この人間の反逆の影響は全被造世界に及んだ。「心は、人間性の宗教的中心(religious centre of human nature)であり「意味」の時間的多様性と統一性を持つ世界は、神によって、この「心」に密接な関係を持つものとして創造されている。この点から、人間の「心」における離反は、人類において集中されている時間的世界全体の、離反を意味する。この意味で、「心」における堕罪から来ている崩壊性(destruction)は、宇宙における実在の「意味」の、時間的側面全体に浸透している。ここから、いかなる意味側面であれ、一つとしてこの崩壊性から除外されるものはないと言える。」31 ローマ8:19―23においては、被造物全体が崩壊性を帯び、不断に虚無に向かっていると述べられている。人間の心が堕落したことによって、生物界・無生物界すべてがこの堕落に巻き込まれた。

従ってキリストの和解は、人間だけではなく全被造世界に及ぶのである(コロサイ1:20)。回復されなければならないのは、人間だけではない。天にあるもの、地にあるものいっさいが、神と和解され、新しく創造される必要がある。再生されると、人間の霊は新たに誕生する(ヨハネ3:3)。しかし、人間の肉体は、再生した後にも崩壊性を持っている。従って、再生者には、新しく生まれた霊の原理と肉体の原理との間に戦いがある(ローマ7:23、8:3―11)。外なる人は衰えゆくが、内なる人は日々新たにされる(第2コリント4:16)。次章で示すように、堕落の影響は、心と肉体の両面に及んだ。肉体は、土のちりで形造られたが故に、それと共通性を持つ物質世界も、連動して虚無に服した。人間は、心において、霊的再生を体験しているので、その回復(restoration)は、新天新地の到来後の世界に連続している。

しかし、第2コリント4章16節にあるように、内なる人は新しく生まれ、成長し続けるが、外なる人、即ち肉体は、物質であるがゆえに、それは衰え続けて土に還る。創世記3:17―19において、天と地と肉体が神の刑罰として虚無の中に落ちたと言われているが、それは今日でも同様にそうである。キリストの救いは全人的であるがゆえに、肉体の贖いをも含む。しかし肉体の贖いはキリストの再臨時にあるとされ(第2コリント15:52)現在持っている血肉のからだは依然として朽ちゆくものであり(同50節)、現世界における回復はなく霊的身体へ帰られねばならない(51節)。これと同様に、現在存続する物質世界の崩壊性が終結し、虚無から解放されるのは、新天新地の到来においてである(黙示録21章)32

従って、我々は、律法の適用による神の国建設は物質界の崩壊性の限界の中で進められて行くことを覚えねばならない。諸領域における法を発見し、抽出し、それを適用・応用することによって、我々は、不断に崩壊・無秩序化してゆく世界の虚無性を食い止め、それを克服して行く、地の塩の役目と世の光の役目(マタイ5:13―14)を果たすのであって、物質界自体の回復は、神のみ手の中にあると見なければならない。

この意味で、人間の文化命令が、堕落前には永遠の世界と連続的であったのに対し、堕落後には非連続的であると言える。堕落前においてアダムは、業の契約の元に、善を行う報酬として、永遠の祝福が約束されていた。しかし、これは、アダムの側の服従を条件としていたのであって、無条件に与えられるものではなかった。不服従に対しては死という刑罰も用意されていた。アダムにとって、人生とは永遠の世界への準備期間であるという意味で、再生者の人生と共通している。しかし、大きな違いはアダムにおいては、永遠の世界はその心の善性によって契約を守ることによる報酬であったが、再生者において、永遠の世界は、再生者に代わって業の契約を守り通したキリストが獲得した報酬の相続であるということである。

ゲルハルダス・ヴォスは次のように言っている。
「それは、人は初めから永遠の祝福の状態に置かれているとは見ておらず、永遠の祝福に至るかもしれない道に置かれていると見ている。彼の変わりうる自由とともに与えられている罪と死との可能性が、なお、彼の頭の上に舞っている。彼はその良い性質によって善を行う自由を持っているが、まだ善のみを行うことができる最高の自由に達していなかった。後者は、理想として彼の前に置かれている。それを獲得する手段は、業の契約である。ここでもまた、恵みの状態は、再び、究極的には、最初の正しい状態における人間の宿命についての理念によって決定づけられている。我々が第二のアダムにあって受け継いでいるものは、我々が第一のアダムにあって失ったものに限定されていない。

それどころか、それは、もし最初のアダムが堕落しないで彼の状態を堅固なものにしていたならば彼が我々のために獲得してくれていたはずのものの充分な実現である。その状態に置かれた者は、決して再びその状態から堕落することができない。キリストが真に完全な救い主であられるのであれば、同様に真に、我々に聖徒の堅忍を与えてくださらねばならない。」(G. Vos, 「改革派神学における契約の教理」)33

人間が業の契約を破ったという事実は、たとえ、キリストの贖いによって再生したとしても、消えることはない。人間はキリストの業を受け入れるのであり、神の実子ではなく、神の養子として生命を相続する。これゆえ、我々は二度と業の契約に戻ることはない。業の契約に結び付いた呪いは、現世界を支配し続け、万物の更新時まで続く。34 それは、万物が、人間を頭として有機的に結合している創造時の状態を続行しているからであり、人間の肉体は、土から造られたという意味で共通性を持ち、この肉体は崩壊性の中にあるからである。