II

神の律法の新約時代の有効性について

ルターは説教1525「クリスチャンはモーセをどう考えるか」において、次のように言っている。モーセ律法はユダヤ人のみを縛り、異邦人を縛らない。我々は、モーセを支配者又は律法賦与者としてもはや認めない。」モーセについて、ルターは3つの点を見ていた。「第一に、わたしはイスラエル人に与えられた律法を廃棄する。それは、私を励ましもしないし、強制もしない。それはもはや死んでいるのであり、去ってしまったものだ。第二に、わたしはモーセのうちに、自然のうちに持っていない何かを見いだす。それは、キリストに関する神の約束と誓いである。これは最上のものである。第三に、我々は父祖アダム、アベル、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセとその他すべての人々と同じく、モーセを信仰と愛と十字架の美しい例として読むのである。・・・モーセが命令を与えたところにおいて、彼が自然法に同意する場合以外、我々が彼に従う必要はない。」(Luther's Work, vol.35, Word and Sacrament (Philadelphia : Muhlenberg press, 1960), I, pp. 161-173.))

Kevanは、無律法主義の起源について次のように述べている。「無律法主義は、キリスト者の経験する事柄の中における神の律法の教義においてピューリタニズムと神学的に反対の立場をとっていた。新約時代や、Valentinian Gnoticismの時代における初期の発現とは別に、無律法主義の公的出現はJohannes Agricola(時としてIslebiusと呼ばれる)というルター派改革主義の活動的指導者といつも関係していた。わざによる救いを主張する教義との戦いに有効な教義を探求する過程で、Agricolaは、「信者は倫理的律法を遂行する義務がある」という考えを否定した。Wittenbergにおけるルターとの論争(1537年)において、Agricolaは人は信仰のみによって救われるのであり、その人の道徳的性質など関係ないと主張したと言われている。

Agricolaのこれらの見解は、ルターによって福音のヘタな模造物であるとして却下されたが、それにも関わらず、無律法主義者たちは繰り返し、ルターの著作に自説を訴え続け、彼らの意見に対するルターの支持を取り付けようと迫りつづけたのであった。しかしながら、この主張は、ルターの表現の中の曖昧な部分や、宗教改革者への誤解に基づいているものに過ぎなかった。」(Ernest Kevan, The Grace of Law, A Study of Puritan Theology (Grand Rapids : Baker Book House), 1965. cited by R. J. Rushdoony in Ibid., p. 652.))

しかしKevanは「この(ルターの表現の中の曖昧な部分)は、ルターの思想の中の曖昧さに由来している」と言っている。1529年に、ルターは「小教理問答」において、律法についての幾分健全な見解を示してはいるが、彼の律法への攻撃によって作られた損害を元通りに戻すことはできなかった。

「律法は過ぎ去ったものであり、新約のクリスチャンにとっては古いものである。従って、これを守る必要はなくなった。しかし、無律法主義に陥ってはならない。」という曖昧なルターの思想は、救いの条件としての律法の否定が、救われた後のクリスチャンにとっての行動規範としての律法の否定にまで及んでしまったために生じたものと思われる。19

確かに、聖書は、クリスチャンが律法の下にないと言い、また、それに束縛されないという(ローマ6:14、7:6、ガラテヤ3:23、24、25)。しかし、それは、律法が人間の違反の責任を追及する効力を失ったという意味であって、律法そのものが倫理的要求力を失ったという意味ではない。律法は、今日においても、神の人格的被造物としての人間支配の原理として有効であり、クリスチャンもこの意味で、律法の元にある。

カルヴァンは次のように言っている。「多くの人は、この(律法の)呪いからの解放を言おうとするとき、『信仰者にとっては、律法は廃止された』という。しかし、これは、律法が正しいことをもはや彼らに命じ無いという意味ではなく、ただ、彼らにとっては以前のようなものではなくなったという意味である。即ち、以前のように彼らの良心を脅かし、混乱させ、罪に定め滅ぼすようなことがないということである。」(J・カルヴァン、キリスト教綱要、II・7・14、新教出版社)さらに、「しかし、次のことは変わらないのである。即ち、律法の権威は少しも損なわれず、常に尊厳と従順とを我々から受くべきだということである。」(II・7・15)

キリストが律法の呪いを身代わりに受けたので、人間にとって律法は、信仰によってキリストの贖罪を受け入れる時に、その断罪の効力を失う。しかし、人間は律法の呪いからは逃れても、律法自体からは逃れられない。依然として、人間は律法を完全に遵守する責任を負っている。

J・マーレーは、次のように言っている。「人間が神に受け入れられ、義と認められることに、律法の貢献がわずかでも考えられるならば、恵みの福音は無駄になる。・・・『律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている』(ガラテヤ5:4)。しかし同時に、パウロが次のように述べていることを思い起こさなければならない。『すると、信仰のゆえに、私たちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立する。』(ローマ3:31)

・・・恵みの教理は、律法のわざによる歪曲から油断なく護られねばならない。そればかりではなく、律法の教理もまた、恵みについての 誤った考え方からくる歪曲から護られなければならない。律法主義の混入から恵みを護り、無律法主義の破壊から律法を護らなければならない。」(John Murray, キリスト者の倫理, pp.208―9)

さらに、ゲルハルダス・ヴォスは次のように言う。「被造物である人間は神に従属している。そして、たとえ神が、律法の遵守に対して、永遠の命をもって報いることをよしとされなかったとしても、律法遵守の要求はなお有効である。『これを行え』という要求は、たとい『あなたは生きるであろう』という約束が伴わなくとも、なお正当である。従って、恵みの契約においても、この契約にあずかっている者たちには、永遠の祝福の条件としての律法の要求は免除されているが、道徳生活の規範としての律法の要求は免除されていない。」(G. Vos, Redemptive History and Biblical Interpretation, 日本語版, p.33.)

次に、新約時代における律法の効力について、聖書本文から論証しよう。