クリスチャンになると、神はわれわれを「子として扱い」、訓練を開始される。

まず扱われるのは「傲慢さ」、そして、「依存心」である。

プライドがあると、真理が開けない。

聖書が読めるようになるには、まずプライドを破壊されなければならない。

プライドがズタズタになるために、「お話にならないようなこと」が起きる。

一番大切にしていた「自分の宝」や「砦」が粉砕される。

クリスチャンになって、いわゆる「マイ・スイート・ホーム」のようなものを夢見るとすれば、とんだ見当違いである。

モーセに率いられた民を待っていたのは、青々とした草花が茂る肥沃な土地ではなかった。

まったく逆だった。

荒野である。サソリや蛇が出る砂漠である。

水も草も木々もない。

信仰しか通用しない土地である。

自分に頼ることがまったく許されない場所である。

自分の力で乗り切ろうとする人々のプライドを粉砕する場所、それが、荒野である。

私の場合、それまで偏差値でしか人を評価できなかった。

無意識のうちに人を格付けしていた。

自分の学力からはるかに低い学校に通わなければならないこと、そして、それが自分の一生の履歴として残ることの苦しみに1年間悩まされた。

他の大学を再受験しようかと思ったが、内側から力が出なかった。

これは神が定めたレールであると悟った。

運命を甘受してから変わった。

聖書を霊的に理解することができるようになった。

私の場合、さらにプライドを破壊されなければならなかった。

就職である。

会社に入って、活躍しようとしたが、何をやるにもことごとく妨害が入った。

同期の仲間が実務に就いている中、幹部候補生として1年間を実務以外の研修に費やし、出遅れた。

実務に就いてからも、行く先、行く先、すべての部署で、そこで一番くせ者と言われるような人がトレーナーとしてついた。

神学校を出てからも、あらゆる場面において妨害と無理解に出会い、自我が崩壊した。

何も手につかず、無気力になった。ただ毎日ベッドに横たわってテレビを見るしかなかった。

神は私に「自分の力で自分の栄光を達成するような道」をことごとく閉ざされた。

おそらくこのような挫折がない限り、聖書を読みとくことはできなかっただろう。

実際に力尽きて倒れたことがなければ、エリヤが砂漠の中で倒れたことも理解できなかっただろう。

エリヤを助ける人として神は誰を任命されたか。

飢饉のために餓死寸前になっていた母子である。

王や金持ちや有力者は、みな敵側に回った。

神はご自身の御力を示すために、あえて人間的な力を持つ者を選ばれなかった。

聖書の世界は、常識を超越している。

神だけを信じ、人間に頼らない器ができるまでに、われわれはどれだけ苦しまねばならないだろうか。