神は複数おられる。なぜならば、聖書に「神々」と記されているから。
神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。(創世記1・3)
ここで、「神」と訳されている言葉elohimは”eloahの複数形”である。
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eloahの意味は「神」である。
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つまり、elohimは「神々」という意味である。
それゆえ、この聖句は次のように訳すべきである。
神々は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。(創世記1・3)
神が複数おられるさらなる証拠は、「われわれ」という自称である。
神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」(創世記1・26)
ここで「さあ(われわれは)・・・造ろう」と訳されているnaasehは、asah(行う、作る)の一人称複数形である。
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このように、聖書は、「神は複数おられる」とはっきりと啓示している。
しかし、同時に「神はお一人である」とも啓示されている。
神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。(創世記1・3)
ここで「仰せられた」と訳されているwayyomerは「言う」という意味のamarの3人称単数である。
つまり、存在論的には複数おられる神(つまり神々)は、契約的(法的)に単一体として行動される、ということである。
神は法人なのである。
複数の人々が集まって互いに契約を結び、会社という「法的な人」として単一体として活動するのと同じである。
では次の箇所をどう解釈するか。
しかし、もし行なっているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです。」(ヨハネ10・38)
「これは、御父と御子が存在論的に同一であると示しているのではないか」と言う人がいるかもしれない。
この箇所は、御父と御子が「契約的に合一」しており、「契約的に不可分」であると示している。
なぜならば、同一文脈の次の言葉が「御父と御子が互いに別人格である」ことを示しているからである。
わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。わたしと父とは一つです。(ヨハネ10・29-30)
「父」① は「彼らを」② 「わたしに」③ 「お与えになった」④。
ここで①と③が同一人物であるわけがない。
これは「再帰的」な用法で御父は「ご自分に与えた」のだ、と解釈しても文脈的に無意味である。
前後は次のようになっている。
① わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。
わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。
② わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。わたしと父とは一つです。」(ヨハネ10・27-30)
ここで「羊」はクリスチャンを意味する。
①の意味は次のとおり。
クリスチャンはイエスの御声を聞き分ける。
イエスはクリスチャンをご存じである。そしてクリスチャンはイエスについて行く。
イエスはクリスチャンに永遠のいのちを与え給う。
クリスチャンは決して滅びることがなく、また、だれもイエスの手から彼らを奪い去るようなことはない。
で、どうしてクリスチャンは滅びることがないのか、という理由が②に記されている。
② わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。わたしと父とは一つです。」
なぜクリスチャンは滅びないのか、それは、
「彼ら」は、「父」が「わたしに」与えられた者たちだから。
そして、その「父」は「すべてにまさって偉大」だから。
最高・最強の存在である御父が、イエスにクリスチャンを与えられたので、「誰も彼らを奪い去る」ことができない。
ここで、どうして「御父」と「イエス」が存在論的に同一であると言えるのか。
御父とイエスは別人格であることは明らかである。
それゆえ「わたしと父とは一つです」は、契約的同一を意味すると解釈しなければならない。
もし「神の存在論的複数性」に対する後ろめたさがあるならば、きれいさっぱり拭い去るべきである。
なぜならば、聖書が神は複数おられると啓示しているから。