>私たち日本人がカルヴァン主義に少しでも触れる機会があるとするなら、それは高校や大学で習うマックス・ウェーバーの「プロ倫」だと思います。カルヴァン主義の影響を強く受けた国では資本主義が発達したということが主旨なのでしょうが、その社会的側面からのウェーバーの説明は良しとしても、信仰者の内面に関しては違和感を覚えるものでした。(プロ倫は速読みたいな感じで一応読んでおりますが、昔のことなので内容は殆ど忘れています。)
>特に予定説に関して、「誰が救いに予定されているかはわからない。その不安から逃れるために、禁欲的に労働に励むことにより、社会に貢献し、成果をあげ、そこに至って初めて救いの確信を得ることができた」というような(正確ではないかも知れませんが)説明が、少し変だと感じる所です。
「救われているかどうかわからないという不安」はアルミニウス主義者なら大いにある得る事でしょうが、たとえばテオドール・ド・ベーズのような人が「私は救われているかどうかわからない。それでいつも不安だ」などと考えるでしょうか。
>「救われているかどうかわからないから、とにかく働いて救いの確信を稼ぎ出せ」というのは、何か動機が変です。
>最初に救いの確信があってこそ、頑張れるのではないでしょうか。


まったく同感です。

マックス・ウェーバーの本書の特徴は引用がないことです。内部にいる人々(カルヴァン派の人々)の言葉がない。つまり、証拠がないのです。

カルヴァン派の人々は、救いの確信を得るために労働するのではなく、救われた証として労働する。なぜならば、人は「神の国を拡大するために召される」からです。「天におけるがごとく地上でも御心が行われる」ために働く。

救われているか救われていないかの証拠は、御霊です。


「この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。
神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。」(エペ1・13、4・30)


御霊を受けている人は、みな救われています。そして、御霊を受けている人は、「イエスは主です」と告白します。


「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません。」(1コリント12・3)


それゆえ、救われているかどうかを知るには、その人が「イエスは主です」と言えるかどうかによってわかります。


>ド・ベーズが、あの困難な時代にあって、あれほどの健康と長寿を享受することができたのは、やはり「選びの確信」に基づく平安と不動心があったからではないでしょうか。
>健康と寿命だけで人生を測るわけではありませんが、アルミニウスは早くに健康を害し、亡くなりました。(当時としてはそれが普通かも知れません)

>ネットでドルト信仰基準というのを読みましたが、これはもう、信仰者に絶対的な救いの確信を持たせるものであると感じました。そこからは「ちょっと自分が救いに予定されているかどうか不安なので、それを解消するために、とにかく一生懸命働きます」といった強迫観念のようなものは何も感じ取れません。
>そもそもマックス・ウェーバーはカルヴァン主義の信仰を生きた人なのでしょうか。実態は全くの「よそ者」でしょう。


マックス・ウェーバーは「外部の人」であり、外部の人が、信仰の内部のことを理解できるはずがありません。


「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」(1コリント2・14)


救いに関することは御霊によってわきまえるものです。御霊がない人が、御霊のことを理解できるはずがありません。