ヒューマニズム(人間教)は、「存在論的」と「契約的」という二つの概念を区別しないので、男女平等を誤解している。

聖書によれば、男女は神の似姿として創造された。

つまり、人間のあり方は、神の本質を表現している。

神は、三人おられ、御父、御子、御霊の各位は、存在論的に平等である。

しかし、互いに契約を結び、一人の法人となり、その法人の内部では、御子と御霊は御父に従われる。

神の内部では、契約的に序列がある。

同じように、男女は存在論的には平等であり、男の命も女の命も等しく尊い。

しかし、社会を形成する上で、神が男女にお与えになった秩序は、男性が”主”で、女性が”従”である。


しかし、あなたがたに次のことを知っていただきたいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。
男はかぶり物を着けるべきではありません。男は神の似姿であり、神の栄光の現われだからです。女は男の栄光の現われです。(1コリント11・3, 7)


この御言葉に逆らい、契約的にも「男女平等」を唱えるならば、その人や組織は、神の似姿であることを嫌う者であり、それゆえ、神の創造の秩序を破壊する者である。

われわれは生まれながらに、男女が本質的に平等ではないということを知っている。

女性が男性をリードする社会や組織には、何らかの不自然さや無理があると知っている。

だからと言って、女性が社長を務める会社が間違っているということを意味しない。

何事にも例外はある。リーダーや教師として才能のある女性はいる。

聖書の中にも女性の士師デボラが登場し、イスラエルを治めた。

しかし、これが聖書の基本的な男女観を否定しているとみてはならない。

IOCをはじめとする国際社会は、ヒューマニズムの男女平等思想(つまり「契約的男女平等」)に従っており、国会の議員比率の男女同数化を奨励している。

これは異常であり、神ののろいを招くだけではなく、自然からのしっぺ返しを食らうだろう。

オリンピックに男女がどの競技でも等しく「男女別に」参加できるようにするのはよい。

しかし、女性に性転換した男性が、女性競技に参加するのは、異常であり、罪である。

こんなことをしたら、女性のスポーツそのものが崩壊する。

神は男性の身体能力を女性よりも優れて創造された。

性転換しても、男性の身体能力は残っているわけだから、その人は、女性よりも優位に立つことになり、機会の平等が失われる。

人間社会は、神から離れれば離れるほど、異常になり、自滅に近づく。

「聖書を基準とすべきだ」ということを学ぶまで、人間は痛い目にあわねばならないだろう。