次の原則を忘れてはならない。


(1)クリスチャンはみな「王である祭司」である。

(2)キリストだけが神と人とを結ぶ仲介者である。


(1)
旧約時代においても、神の民は各人が祭司であった。

過越祭は各家庭において行った。


これは一つの家の中で食べなければならない。あなたはその肉を家の外に持ち出してはならない。またその骨を折ってはならない。
イスラエルの全会衆はこれを行なわなければならない。(出エジプト記12・46-47)


エリヤはレビ族ではなかったが、祭壇を築いた。


エリヤが民全体に、「私のそばに近寄りなさい」と言ったので、民はみな彼に近寄った。それから、彼はこわれていた主の祭壇を建て直した。(1列王記18・30)


新約時代において、クリスチャンはみな「王である祭司」である。


しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。(1ペテロ2・9)


「教会の牧師や長老以外、聖餐式を司式してはならない」という規則が正しければ、この箇所を否定することになる。

プロテスタントの主張の大きな柱は「万人祭司」である。

クリスチャンは一人一人が、王・祭司・預言者である。

(2)

キリスト以外の、特定の人間や組織が神とクリスチャンの仲介者となってはならない。


神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。(1テモテ2・5)


祭司の務めを教会の牧師や長老に限定することは、特定の人間や組織をキリストの座に据える重大な誤謬である。

それは新たな教皇制度である。

では、われわれは牧師や長老の祭司としての仕事を無視すべきだろうか。

ノー。

彼らは、われわれが集まったときに、秩序を維持するために選ばれた人々である。

平信徒のクリスチャンが自分勝手に聖餐の司式をしたり、説教することは秩序の乱れである。

クリスチャンはみな祭司なのだが、教会という集団の中では、秩序維持のために、特定の人々に祭司としての役割が与えられている。

しかし、家庭の中では、クリスチャンは祭司として、各自家庭礼拝において説教したり、聖餐を司式することができる。

もしこれを禁止するならば、その教えは「祭司として召されたクリスチャンの使命」を否定している。

(3)

各クリスチャンは、キリストにあって王・祭司・預言者である。

契約的にキリストと合一しているので、キリストの権威のもとで王・祭司・預言者になれる。

どのような個人も組織も、キリスト「を押しのけて」王・祭司・預言者になってはならない。

キリストだけが王・祭司・預言者であり、神と人を結びつける祭司としてこの世界においてキリスト以外にその権威は与えられていない。

ローマ・カトリックは教会を、キリスト「を押しのけて」祭司として君臨している。

なぜならば、ローマ・カトリックだけが真理と救いへの道であると述べているからである。

教会や牧師や長老は、唯一の王・祭司・預言者であるキリスト「を押しのけて」ではなく、キリスト「の権威を付与されて」副官として働く。

個々人のクリスチャンも、キリスト「を押しのけて」王・祭司・預言者となったのではなく、キリスト「の権威を付与されて」副官として王・祭司・預言者になった。

それゆえ誰も「私によらないでは聖餐式は無効だ」と言えない。

「キリストによらないでは聖餐式は無効だ」とは言える。

もしプロテスタント教会が「個人聖餐式」を否定するならば、それは、新たな教皇制と化した。

自分がキリストとなる組織は、神の裁きを受ける。