1.


教会に集えないとき、教役者不在、一人で(または家族で)行う聖餐式でも良いのでしょうか。
ウェストミンスター信仰告白や小教理問答の解説を読むと、必ず『ふさわしい=按手礼を受けた者が司式しなければ無効』(ルターの小教理問答も同じ)となっていますが、聖書の根拠聖句は何処にあるのでしょうか?


旧約時代においても、過越祭は家庭でやっていました。

旧約時代においても、神の民は個々人が祭司として存在していました。

旧新約を通じて、聖書は三一神の「一と多」が基本原則となっています。

すなわち、「三位において、各位は同格であるが、集団を形成するときに、秩序のために社会契約的序列ができる」が万物の存在の基本原則として存在する。

父、子、聖霊は、本質において、それぞれ同格の神であるが、集団として存在する場合、各位の間には序列があります。

これは、被造物の間の「一と多」に適用される。

「神の民はすべて、個人として祭司である。 しかし、彼らが集団を形成する場合、秩序のために、神に任命された人が特別に祭司の役割を果たす」。

個々人のクリスチャンは各自「祭司」ですが、クリスチャンが集まる教会においては、「按手礼を受けた牧師や長老が祭司の務めを果たす」。

もし、個人としてのクリスチャンが、個人や家庭において聖餐式を行えないとすれば、「個としての三一神の各位は神ではない」という原則があることになり、聖書の教えから逸脱します。

牧師や長老が存在するのは「クリスチャンの集団」のためであり、個人や家族において按手礼を受けていないクリスチャンが司式をすることを禁じられるならば、牧師や長老の制度が「神とクリスチャンを仲介するメシア」の役割を果たす「プロテスタント版教皇制」を生み出すことになります。

いかなるクリスチャンの間にも、「イエス・キリスト以外の仲保者」を設定してはならない。

牧師や長老の存在は、「クリスチャンの集団の秩序のため」以外であってはならない。

誰でもクリスチャンであれば、個人として聖餐式を行うことができ、家族で行う場合は、父親が行うべきである。父親がいない家庭の場合は母親が行う。両親がいない家庭の場合は、年長の男性が行う。男性がいない場合は、年長の女性が行う。

これが聖書の教える「祭司制度」です。

2.

「聖餐に与るクリスチャンの祈りは強く働くようになる」と言ったのは、魔術的な力が聖餐にはある、ということではない。

聖餐のパンとぶどう酒そのものに力があるのではなく、神がそれを、信仰を通じて、「神と神の民の契約的合一の象徴」として用いてくださる。