食べ物については、私は聖書は「特定の食べ物を食べては成らない」という文言はないと考えております。

そして、これについては、「そうではない」という意見の人は、反論できないでしょう。

むしろ「禁欲思想は悪霊に由来する」とすら書かれています。


「しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。
それは、うそつきどもの偽善によるものです。彼らは良心が麻痺しており、
結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られた物です。
神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。
神のことばと祈りとによって、聖められるからです。」(1テモテ4・1-5)


「神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。」

私は酒、タバコ、大麻・・・は、本来良い物として作られているのであり、「感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つ」ないと考えています。(ただし、法律が禁止している場合は、神が立てられた権威としての国を重んじて、味わうべきではないと思う。)

そして、健康悪化や中毒などの症状がでている人の場合、それは、その人の「管理」の問題であって、食べ物そのものには問題はないと考えています。

「管理」の問題は、本人と神との関係の問題であって、他人がとやかく言えるようなものではありません。だから、誰か酒に溺れてしまっているならば、それは「その人の問題」であって、私の問題ではありません。「それだから、私も酒を飲まないようにしよう」とは思いませんし、思ってはいけない。

これが、もし聖書に明確に規定されている罪の場合は、そうではありません。

たとえば、クリスチャンの誰かが仏様に祈っている、ということがあれば、そのことはその人の個人的な問題ではなく、キリストの御体である教会の問題になります。それは、彼が拝むという行為についてクリスチャンは全体が関心を持たなければならない。

場合によっては、訓告、戒規、絶縁が必要になるかもしれない。一部が病んでいて、全体が病んでいないということはありえないのです。

しかし、食べ物については聖書はいかなる規制もしていないのですから、それは他人が関与する問題ではない。食べ過ぎで健康を害している人がいれば、それは、その人の管理の問題であって、私たちがとやかく言える問題ではない。

もちろん、健康になれるように自制心を与えられるように祈ることができるでしょう。しかし、それを「罪」として、それによって戒規を発動はできない。

誰かが不倫をしているならば、それは、クリスチャン全員が関心を持つべきです。なぜならば、聖書には明確に「罪」と定義されているからです。

しかし、その人が配偶者との間にどのような性的な関係があろうと、それは、個人の問題です。もちろん暴力やらDVがあれば別です。

そうじゃない場合、それは私たちが関心を持つべき問題ではなく、罪として扱うことはできません。

聖書に明確に「罪」として規定されている事柄以外は、その人を責めることはできません。