マタイ24章や黙示録の中のほんの一部でも1世紀に起こったといえばプレテリズムになるかというと、決してそうではありません。もしそうなら、アミレの事実上全員が(パーシャル)プレテリストになってしまいます。


そのようなことは言っていません。
プレテリズムと歴史主義を分けるのは、紀元70年の来臨を「再臨」と考えるかどうかです。(*)
プレテリズムは、紀元70年に再臨があり、「再臨の際にこういうことが起きる」と述べた箇所(たとえば、1コリント15・20-28)が成就したと考えます。
しかし、歴史主義は、そのような箇所を、一回限りの再臨が起きる世界の終末に起きると考えます。そのため、クリスチャン個人がもはや死と無縁の存在になったと考えません。歴史主義の教会では、お墓が作られます。プレテリストは、クリスチャンはすでに死から解放されているので、お墓を作らないはずです。
とくに無千年王国論者において顕著ですが、サタンはまだ権力を有していると考えるので、善と悪が同時並行的に発展し、最終的にどちらが勝つかについて不明と考えるクリスチャンがこのグループには多い。


いわゆるプレテリズムの成り立ちや歴史的経緯を見ると(https://en.wikipedia.org/...)プレテリズムとヒストリシズムを分ける決定的な要素は、ネロを666と見るかどうかです。プレテリズムを世に出す動機そのものがこれだからです。 これは「開祖」とされているLuis del Alcazarだけでなく、チルトン、ジェントリーなどの代表的なプレテリストに共通しています。ジェントリーは教皇666論者もプレテリストに挙げていますが、ネロを666と見ない学者をプレテリストと呼ぶことは、プレテリスト側の我田引水です。あくまでも、ネロを666と見るかどうかがプレテリストのリトマス試験紙です。


「プレテリズムをローマ・カトリックの陰謀」という前提に立っているように見受けられますが、すでに何度も掲示したように、釈義的に、獣はティトゥス以外に考えられません。そして、ティトゥスは復活したネロです。これは、ご存じのとおり、私が「ローマ・カトリック教会を守りたい」という動機があるから述べているのではなく、純粋に釈義的にそのように解釈せざるを得ないからです。
歴史主義は「紀元70年の来臨は再臨である」と信じることができないので、獣の年代を紀元70年以前に閉じ込めておくことに失敗するのです。この点から見ても、プレテリズムと歴史主義を分ける分水嶺は「紀元70年に再臨があった」ということを信じるかどうかであると言えます。
ジェントリーは誤解しています。ローマ法王獣説は、プレテリズムと矛盾します。

 

(*)

再臨と考える人々の中に、

 

(1)再臨は一回限りの出来事で、それは紀元70年に起きた。それゆえ、クリスチャンは復活し、すでに復活体になっている。この世界は永遠の新天新地に変わった。

 

と考えるフルプレテリストと、

 

(2)再臨は二回あり、紀元70年に起きた再臨において、旧約の体制は完全に成就され、新約の体制が始まった。この体制のもとで、世界の全民族が弟子化され、神を礼拝し、聖書に従うように整えられる。世界の終末に起きる第二の再臨において、新約の体制に対する裁きが行われ、永遠の御国が到来する。

 

と考えるパーシャルプレテリストがいます。