1.
あと、念のために確認ですが、 Then shall two be in the field; the one shall be taken, and the other left. Two women shall be grinding at the mill; the one shall be taken, and the other left. これは携挙を指していると理解していいでしょうか? こうした現象が当時の各教会で起こり、正確な比率は不明だけれども、その後の宣教に戦力不足をきたすようなレベルではなかった(つまり当時のクリスチャンのほぼ全員が携挙されたのではない)という理解で間違いないでしょうか。
この箇所は携挙を指していません。
これは、裁きとして「真のイスラエル人」と「偽のイスラエル人」が選り分けられることを示しているので。
前後の文脈を見れば明らかです。
この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。
ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。
人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。
洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。
そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。
そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。
ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。
だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。
しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。
だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。(マタイ24・35-44)
「ノアの日」は、信者と不信者を分けるためにやってきました。
続くマタイ25章では「油」は聖霊の象徴です。
「聖霊をいただいている娘たち」と「聖霊をいただいていない娘たち」の差として描かれています。
文脈からすると、これは同一の警告とみなしてよいと思います。
本当のクリスチャンならば、聖霊をいただいているはずで、聖霊は明らかに「再臨の前に警告される」はずです。
本当のクリスチャンにとって、再臨が突然やってくることはありません。
偽のクリスチャンに対して主は「確かなところ、私はあなたがたを知りません」(マタイ25・12)と言われます。
これが携挙を指すとすれば、携挙されなかった人々は「無縁宣言」をされることになります。
この宣言をされた人々がその後の世界において伝道に従事するとは思えません。
あくまでも携挙は「実際的復活・昇天」のモデルとして起きたのであって、信者と不信者を分けるために起きるのではない、と考えるのが妥当でしょう。
2.
百歩譲って復活・携挙の大事な部分が成就したと捉えるとしても、再臨はその1とその2に分かれているので、「成就した」と言い切ることがもっと厳しいように思われます。 再臨その1がAD70年に起こったとして、再臨その2が千年王国の終わりに起こるのだとしたら、このワンセットの再臨がAD70年に成就したとは言い難いと思うのです。 This generation shall not pass, till all these things be fulfilled. この御言葉は「千年王国前後再臨説」をもってしても依然解決できていないように思われるのですが、どう考えたらよいでしょうか?
このご質問について答えが足りなかったかもしれないと思いますので追加します。
繰り返しになりますが、第1の再臨は「キリストのニュー・ワールド・オーダーの法的確立のために」起きました。
これで「世界は一度幕引きが行われた」。
マタイ24・34の「すべてが成就される」という文言は「再臨の前兆がすべて起き、再臨において法的確立が完全に成就する」ということを意味します。
そこに「実際的な成就」は含まれません。
第2の再臨は「全民族弟子化」が実現し、世界中の民族が「実際的に」イエス・キリストを主として礼拝し、イエスの教えを守るようになったときに実現します。
それゆえ、2度に分かれているとしても「すべてが成就される」という御言葉が紀元70年に実現しなかったとは言えません。
さらに、次の御言葉が決定的です。
彼らがこの町であなたがたを迫害するなら、次の町にのがれなさい。というわけは、確かなことをあなたがたに告げるのですが、人の子が来るときまでに、あなたがたは決してイスラエルの町々を巡り尽くせないからです。(マタイ10・23)
「イスラエルの町々を巡り尽くせない」うちに「人の子が来る」。
イエスと同時代に再臨がある証拠です。