デイビッド・チルトンは、Days of Vengeanceの中で、教会の正統的・伝統的な携挙説を述べています。


In part, therefore, the "Rapture Theory" is based on a mis-understanding of the Christian doctrine of the Ascension of the Church. The definitive Ascension took place positionally with Jesus Christ, in whom we are seated in the heavenlies (Eph. 1:20; 2:6); the progressive (experiential) Ascension takes place liturgically with Jesus Christ every week, in the celebration of the Eucharist (Heb. 12:22-24); and the final (culminative) Ascension takes place eschatologically with Christ a) spiritually, at death (Rev. 20:4), and b) bodily, at the end of history (1 Cor. 15:50-55; 1 Thess. 4:17).1
そのため、「携挙説」は、キリスト教の「教会の昇天」の教義に対する誤解に基づいている。決定的な昇天は、ポジション的に、イエス・キリストとともに起きた。すなわち、キリストにあってわれわれは、天の所に座っている(エペソ1・20、2・6)。漸進的な(経験的な)昇天は、毎週、聖餐の祝宴においてイエス・キリストと共に典礼を通じて起きる(ヘブ12・22-24)。最終的(頂点的な)昇天は、キリストと共に終末論的に起きる。それは、a) 死の際に霊的に(黙示録20・4)、b)歴史の終わりに肉体的に(1コリント15・50-55、1テサロニケ4・17)に起きる。1


チルトンは、「決定的」と「漸進的」「最終的」と分けて、それぞれが携挙であると述べています。


(1)決定的携挙において、教会はすでに天の所に座っている。
(2)漸進的携挙において、教会は聖餐の礼典を通じて毎週携挙される。
(3)最終的携挙において、個人は死の際に霊的に携挙され、歴史の終わりに肉体的に携挙される。


残念ながら、これは、紀元70年再臨説に基づいていません。
紀元70年再臨説に立つと、「すでに死は滅ぼされている」(1コリント15・22-28)ということになるので、(3)は、次のようになります。


(3)最終的携挙において、個人は死の際にも、歴史の終わりにも、肉体的に携挙される。


伝統的な解釈に立てば、再臨は歴史の終わりに起きるので、それまでの間、個人的な死を体験したクリスチャンは、霊のまま歴史の終焉を待つことになります。これを教会の入会準備会で「中間状態」として学んできたと思います。

しかし、マタイ24・34においてイエスは「再臨の前兆はこの時代のうちに起きる」と言われたので、再臨はイエスの時代の「うちに」起きる。すると、再臨の際に起きると言われる1コリント15・22-28は紀元1世紀に起きたということになる。

つまり「クリスチャンにとって、死は、すでに紀元1世紀において滅ぼされている」。

となれば、紀元1世紀以降、クリスチャンにとって「体を失う機会、つまり中間状態は、存在しない」。