イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。①
また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。
しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。②
また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。 ③
別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。④
耳のある者は聞きなさい。」(マタイ13・3-9)

ですから、種蒔きのたとえを聞きなさい。
御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。①
また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。
しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。 ②
また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。 ③
ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。④」(マタイ13・18-23)


1.


私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。(ローマ7・18)


「自分の肉のうちに善が住んでいる」と誤解している人がいる。

われわれの「肉」つまり「生まれながらの自分」は、クリスチャンになった後も「善なし」である。

「クリスチャンになったら、生まれながらの自分も聖化されて罪を犯さなくなる」と考えているならば、大きな間違いである。

われわれが、復活・昇天し、世界の王になったのは、あくまでも「法的」である。

われわれの実存には変化はない。

われわれは、クリスチャンになる前と同様に、罪人である。

われわれは、クリスチャンになると、「法的な聖人」になるのであって「実際的な聖人」になるのではない。

2.

「じゃあ、なぜクリスチャンになって、人柄が変化するのか。クリスチャンになってから優しくなったと言われるのはなぜか。」という人がいるかもしれない。

それは、御霊の働きである。

クリスチャンになると、御霊が内住される。

内住の御霊は、われわれに影響を与えて、善を行わせてくださる。

御霊の支配が大きければ大きいほど、その人は神に似てくる。

しかし、御霊の支配が阻害されると、その人は「地の自分が出てきて」悪を行う。

われわれは、生来、神の国などどうでもいいと思っている。

神の義もどうでもいい。

神の利益とかよりも、自分の利益に関心がある。

もしクリスチャンが、世の人と同じように貪欲で、他人のものを貪り、騙し、悪事にふけっているならば、それは、御霊の影響を自分で阻害しているからである。

キリスト教界でなぜ再建主義が広まらないかというと、「神の国などどうでもいい」と考えているクリスチャンが多いからである。

彼らは「地上を変える?そんなこと関心ない。再臨が早く来ればいい。そうすれば、全部変わる。」と考えている。

彼らにおいては、2つの可能性がある。


(1)御霊が阻害されている。

(2)そもそも御霊が内住していない。


御霊が支配していれば、神の国を求め、自分の利益や覇権、勢力、富、名誉などは捨てるはずである。

3.

昔、一緒に勉強会を開き、ラッシュドゥーニーの著作を読んだ友が、まったく異端の教えにはまってしまったのを見るにつけ、「生き残るのは大変だ」と思う。

人生の中で、サタンはいろいろな誘惑を用意する。

おいしいケーキを出してくる。

それを食べてしまったら、おしまいである。

人生の焦点がずれる。

目標とすべき「神の国の拡大」がどうでもよくなる。

米国で、かつて再建主義者として活躍していた多くの人が、フルプレテリストになったり、オーバン・アヴェニュー神学に走ったりして、無能化・有害化されている。

私は、これまでの人生で振り返ると、その道は死屍累々である。

最後まで真理を保つ人はごく希である。

4.

イエスは、御言葉に対する姿勢に関して、人間を4種類に分けられた。

I.


蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。①

御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。①


1番目の人は、「御国のことばを聞いても悟らない」人。

エサウのように、一杯の煮物と長子の権利を交換するような「俗物」。

霊的な事柄について無関心で、この世のことオンリーで生きているため御言葉を聞いても悟らない。

悟らない人の運命は「悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行」くことである。

つまり、サタンによって御言葉を奪われる。

御言葉の代わりに別の教えを吹き込まれ、異教や異端に走る。

II.


また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。
しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。②

また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。
しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。②


「土の薄い岩地に落ち」るとは、「理解が浅い」「軽い」人。

御言葉を深く追求しない。

ノリがいいから、すぐに伝道活動などに熱心になるが、自分にとって利益にならないとか、立場が悪くなるとわかると、やめてしまう。

III.


また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。 ③

また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。③


3番目の人は「集中力がない人」「欲望に負ける人」。

「世の心づかいと富の惑わし」に気が散って、御言葉を悟らず、神の国のために時間やお金を使わない。

IV.


別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。④

ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。④


4番目の人は、「みことばを聞いてそれを悟」り「実を結」ぶ人。

この人は御言葉の理解が深い。何が大切で、何が大切でないか区別できるので、エネルギーを集中的に使い、効果的な活動ができる。

「再臨が近い」とか「終末が近い」というようなサタンの教えに騙されず、この世界を神の国に変える働きに自分のお金や時間を使う。

それゆえ、実質的な実を多く結ぶ。

予定論を信じることができないような人、世界の終末が近いなどと考えている人を何人獲得しても無意味である。

それゆえ、教会の礼拝出席者の人数などは、成長の指標にはならない。

「実を結ぶ」とは「聖書の御言葉を深く理解し、それに基づいて活動する生産的なクリスチャンを獲得すること」である。