昨年12月、2019年度のM1チャンピオンになったのは、ミルクボーイである。

ボケ担当の駒場氏がストーカー事件に巻き込まれた。

学校時代の旧友から「おめでとうメール」をもらったので「ありがとう」と返したが、続いて何通もメールが届いたそうである。

無数に届くメールにいちいち対応できないので放置していたら、脅迫メールに変わったという。


男は大学卒業後、職を転々としていたが19年12月に空港の清掃の仕事を解雇され、無職に。「かなり落ち込んでいて、部屋に閉じこもりがちで会話もなかった」。同居していた父親は公判で当時を語った。

 ミルクボーイが令和初のM-1王者に輝いたのは、ちょうどその時期と重なる。父親によると、男は駒場さんの躍進を知り、珍しく喜ぶ様子を見せていた。

 被告人質問で、当時の心境を問われた男は「最初は素直に(駒場さんの)活躍がうれしかったし、すごい、会いたいと思った」。

 同時に剣道部の後輩にすぎなかった駒場さんに、羨望ともいえる感情が生まれていた。「就職がうまくいかない、友達もいない自分のふがいなさを比べてしまった」

 精神的に追い込まれ自殺も考える中、駒場さんから2通目以降の返信が得られなかった。「裏切られた」。一方的な憎しみが募り、執拗(しつよう)な攻撃が続いた。
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この犯人の問題は、偶像礼拝である。

世間の評価、成功、幸福・・・

こういったものは、聖書が示す価値観や基準とは相反する。

自分で聖書に基づいてしっかりとした価値観を確立せず、「世の中の大部分の人々が持っているから」というだけで、価値判断を他人に依存したことが最大の原因である。

世間の目が評価の基準になり、それに自分の境遇を照らし、優越感に浸ったり、劣等感で落ち込む。

悪魔の罠にはまってしまったわけである。

悪魔は、人を聖書の基準から離れさせるために活動している。

神が「このように歩め」と示された道からできるだけ、逸れるように働く。

いったん悪魔の誘惑に墜ちると、他人の目が気になってしょうがなくなる。

しまいには対人恐怖に陥り、人生全体が無意味な鎖に縛られ、がんじがらめになる。

自分を救ってくれるのは誰か?

人か、それとも、神か。

悪魔の誘惑に墜ちた人は「人だ」と答える。

人を救い主にするから、人から救われないと悲劇に陥る。

われわれがクリスチャンになるということは、「神だけが救いです」と告白するのと同義である。

神以外に救い主がいるような人は、似非クリスチャンである。

彼または彼女は、偶像礼拝者である。

ヒゼキヤ王は、町をアッシリアの大軍に包囲されたときに、主に頼るように民を励ました。


「強くあれ。雄々しくあれ。アッシリヤの王に、彼とともにいるすべての大軍に、恐れをなしてはならない。おびえてはならない。彼とともにいる者よりも大いなる方が私たちとともにおられるからである。
彼とともにいる者は肉の腕であり、私たちとともにおられる方は、私たちの神、主、私たちを助け、私たちの戦いを戦ってくださる方である。」民はユダの王ヒゼキヤのことばによって奮い立った。(2歴代誌32・7-8)


クリスチャンは「彼とともにいる者よりも大いなる方が私たちとともにおられる」と信じなければならない。

どんなに目の前に権力のある人がいても、神は彼よりも大きく強い。

だから「勝てる」と信じなければならない。

人の目が気になってしかたがない人は、人よりも大きくて強い神に信頼できない。

これこそが、偶像礼拝であり、異なる神への依存である。

偶像を礼拝する人は、その偶像の奴隷になる。

それゆえ「人の目」という偶像によってがんじがらめにされる。

なぜ日本の政治家が中国に対してしっかりとした態度を取れないのか。

それに対して、なぜトランプが取れるのか。

神への依存ができるかどうかの違いである。

預言者イザヤを通じて神を信じて祈ったヒゼキヤと民は、御使いによりアッシリアの軍を全滅させた。


そこで、ヒゼキヤ王とアモツの子預言者イザヤは、このことのゆえに、祈りをささげ、天に叫び求めた。
すると、主はひとりの御使いを遣わし、アッシリヤの王の陣営にいたすべての勇士、隊長、首長を全滅させた。そこで、彼は恥じて国へ帰り、彼の神の宮に入ったが、自分の身から出た子どもたちが、その所で、彼を剣にかけて倒した。(2歴代誌32・20-21)


ミレニアムが、なぜ何度も「紀元70年にイエスが世界の王となった」ことを強調するかというと、信仰を確立するためである。

つまり、この世界は一体誰に支配されているのか、ということである。

紀元70年にイエスは再臨され、世界の王として君臨されたのである。

だから、世界で起きるあらゆることは、イエスの主権のもとで起きる。

サタンは、紀元70年にイエスの足台になっている。

われわれは勝利者である。

なぜ人の目を恐れる必要があるのか。

われわれにおいて、価値観や基準は、聖書のそれになった。

つまり、「どのように契約を守り、それによって神の国を拡大するか」ということが人生の主要な目的となっている。

われわれは、毎日「主よ、あなたが栄光を受けてください。御名が褒め称えられますように。」と祈る。

自分が世間的に成功するかどうかなどどうでもいいことである。

「神に幸せになっていただくこと」

これこそがわれわれの人生の目的であって、自分が幸せになるかどうかなどどうでもいいことである。

「御国が来ますように。御心が天で行われるように地上でも行われますように」と祈る。

自分の覇権が拡大するかなどどうでもいい。

自分の勢力や富や名声などどうでもいい。

神の御国、御心が実現すること。

これだけが人生の目的である。

基準をここに置かない人は、みな偶像礼拝者である。

偶像礼拝者であるから、サタンの奴隷になる。

そして、成功者を妬み、足を引っ張ることに血道を上げ、一度限りの人生を無駄にする。

聖書の基準を堅持する以外に、誘惑をはねのけることはできない。