「死後の世界はない」と考える人が多いが、非常に不幸なことである。
なぜならば、誰も科学的に証明できないから。
死後の世界の存在については、データを集められない以上、科学の対象外である。
科学はデータを集められる範囲内でしか知識を得られない。
それゆえ、生存中に「死後の世界はない」と言う人に確信はない。
いや、むしろ、逆の確信はある。
つまり、彼らは「死後の世界はある」と確信している。
なぜか。
なぜならば、聖書がそのように言っているからだ。
それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。
神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。(ローマ1・19ー20)
「神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです」。
神が彼らに明らかにされた。
つまり、彼らは神を知っている。
神を知っているだけではなく、「神について知られること」、「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性」は「被造物によって知られ、はっきりと認められる」。
誰でも、被造物を見れば、神の本性、永遠の力、神性ははっきりとわかる。
では、彼らはなぜ神を否定するのだろうか。
押し殺している。
心に浮かんでくる神意識を必死に押さえ込んでいる。
誰でも、近くに神がおられることを体験している。
神のご臨在を体験したことのない人はいない。
私は人生の中で間近に神がおられることを何度か体験した。
圧倒的な存在感である。
誰もが「自分は地獄に行くべき罪人である」と知っている。
誰でも、地獄に行くような罪を犯したことがある。
ただ、考えないようにしているだけである。
監視カメラのない駐車場から出るときに、隣の車に接触し、傷つけてしまったとする。
黙って立ち去っても、被害者は自分を見つけられない。
そのまま、この事実を思い出さないようにすることができるが、自分が持ち主に損害を与えたという事実は消えない。
監視カメラはなくても、神はご存じである。
キリストを受け入れないままに鬼籍に入ることは、駐車場を出るときにさんざん他の車にぶつかって何台も損害を与えたのに、賠償せずに知らん顔をして立ち去ることに似ている。
「本当にそのままで済むのか?」
この疑問は一生自分の心に残る。
記憶にあるのに、思い出さないようにしているだけだ。
もし対物賠償の保険に入っていれば、保険会社に連絡すれば、自分の代わりに被害者と交渉してくれ、賠償金を払ってくれる。
これで自分の責任は果たした。
安心して眠れる。
職場の同僚の女性を殺した事実を隠して時効成立した後に、真相が明らかになったある男性は、事件直後、家の周りを有刺鉄線のついた高いフェンスで囲って人を寄せ付けない生活を続けていたそうである。
罪悪感を押さえ込み、真相が明らかになって逮捕されることを恐れる生活はさぞ大変だったことだろう。
逃亡犯は逮捕されると、逆にほっとするそうだ。
イエス・キリストを信じることの主要な利益は、「罪を合法的に処理できること」にある。
イエス・キリストが自分の身代わりに罪の刑罰を受けてくださったと信じることができれば、罪悪感を押さえ込む必要も、処罰を恐れる必要もない。
神は私たちにこのような解決法を提示してくださったのである。
神に罪を告白し、イエス・キリストのゆえに赦しを乞うならば、心の重荷はすべて取れ、まったく新しい心で生活を始めることができる。
私の地域は月曜日と木曜日が燃えるゴミを出せる日である。
もしゴミ収集車が来なければ、自分の家にはゴミ袋がたまって、悪臭が充満するだろう。
「ゴミ袋などないんだ」といくら思い込んでも、現実にはゴミ袋がある。
問題の正しい解決法は、月曜日と木曜日にゴミ袋を出して処分してもらうことである。
これできれいさっぱり、新しい生活を始めることができる。
イエス・キリストを信じない人は、ゴミ屋敷の住民のようにゴミに埋もれた生活をしている人に似ている。
神は喜んでわれわれの罪を赦してくださる。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3・16)