また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。(マタイ6・5-6)
本当に価値があるのは「神からの報い」である。
「人からの報い」はむなしい。
人に見せるために善行を行う人は「すでに自分の報いを受け取っている」。
つまり、人からの賞賛という報いである。
これには本当の祝福はない。
残念ながら、多くの人が「人からの報い」を受けるために努力し、人生を無駄にしている。
たとえば、ある人がノーベル賞を取るために30年研究に打ち込んだとする。
努力が認められてノーベル賞を受賞してもその人は、もし人からの報いを期待して努力したとすれば、「すでに自分の報いを受け取って」しまった。
「神からの報い」がない。
「人からの報い」は容易に毀損する。
人からの栄誉を受けても、妬む人があることないことを言いふらして自分を貶めるかもしれない。
立派な家を建てたある俳優は、誰かに放火され、全焼した。
1000億円の資産を築いても、死ねば終わり。
来世に持っていけない。
しかし、「神からの報い」は朽ちることも、毀損されることもない。
自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。
自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。(マタイ6・19-20)
「本当の信仰がある人」は、隠れて善行をする。
「地上にたくわえ」ないためである。
「天にたくわえ」られるためである。
「すでに自分の報いを受け取」らないためである。
神様がわれわれのために用意しておられる「天の金庫」に宝が積まれるためである。
永遠の住まいに招かれたときにそれを受け取ることができる。
「人からの報い」を受けるために人生を使った人は、永遠の住まいに招かれたときに無一文である。
いかなる宝も用意されていない。
だから、本当に賢い人は、人に見られることを嫌い、御父のみに見られることを好む。
御父は「隠れた所におられ」「隠れた所で見ておられる」。
御父にのみ見られることを望む人は、善行が人に知られ、栄誉を受けたときに「神からの報いが減るのではないか」と心配になる。
われわれには、人生を精算する時が来る。
天に蓄えられた宝のうち「偽善の行為」はすべて差し引かれる。
人に見せるために行った行為は、ことごとくゼロとしてカウントされる。
偽善者は、御国において貧乏になる。