したがって、それぞれの立場は、一貫して福音主義的であり、それぞれに多くの有能で誠実な支持者がいる。相違は、聖書に対して意識的または意図的に不忠実だから生じるのではなく、主に、聖書の解釈においてそれぞれの立場が独特な方法を採用していることに起因している。それらは主に、キリストの来臨の時期と目的、及び、キリストの来臨時に設立される御国の種類と関係している。


ローレイン・ベットナーは、前千年王国説も無千年王国説も後千年王国説も「相違は、聖書に対して意識的または意図的に不忠実だから生じるのではな」いという。

しかし、私にとって、前千年王国説と無千年王国説は「意図的な不忠実」に見える。

1.前千年王国説

前千年王国説は「再臨までの間、全世界が平和と正義に支配され、キリストが王として地上を統治する期間は到来しない」と考える。

これは「地を従えよ」「すべての国民をわたしの弟子とせよ」の命令と矛盾する。

神が「頑張れ!でも無理だけどね」というだろうか。

「わたしは、たしかに、地上支配や弟子化の命令を与えた。しかし、それは実現しない。なぜならば再臨がなければ始まらないからだ」というだろうか。

われわれが信じている神は、こんな不誠実な存在なのだろうか。

さらに、「再臨がない限り、キリストが王として地上を統治する期間は到来しない」との教えは、サタンに対して隙を作る。

われわれの敵であるサタンは、われわれの信仰の「隙」をいつも狙っている。

われわれが不信仰な思いを抱き、不信仰な言葉を発するならば、サタンはそれに「すぐに」飛びつく。

彼は、われわれの不信仰な言動を利用して、われわれから力を奪おうとしている。

もしわれわれが主に対する信仰を堅く保っていれば、驚くような力を発揮する。

小柄な羊飼いダビデは、信仰によって巨人ゴリアテに勝った。

弱い民族だったイスラエルは、信仰によって強い民族であるカナン人に勝った。

サタンは、われわれが、信仰を失えば、ただの人間に過ぎないことを知っている。

われわれは「イエス・キリストの御名によって」サタンよりも強い。

サタンは、イエス・キリストに対する信仰を失わせて、われわれを易々と打ち破ろうとしている。

だから、「常に」われわれを監視しているのだ。

ちょっとした破れ目からダムは決壊する。

ほんのわずかの不信仰も、われわれの全体を破壊する。

「再臨がなければ、どんなに努力しても無駄だ。反キリストによって世界政府を作られてしまう。これは聖書に記された運命なのだ」というような思想で、どうして勝利できるのだろうか。

前千年王国論者は、このような不信仰によって「すでに力を失っている」。

不信仰な彼らに対して、神の力を発揮することを期待できない。

2.無千年王国説

無千年王国論者は「聖書は、世界が終わる前に「千年王国」―すなわち、全地における平和と正義の時代―が来ることを予言していない」と考えており、前千年王国論者と同じく不信仰である。

したがって、彼らに勝利の信仰を期待できない。

さらに、「この世において、善と悪―神の王国と悪魔の王国―は同時並行して進展し、それはキリストの再臨まで続く」と信じている。

聖書は「信仰によって善は悪に勝つ」という記事に溢れている。

善も悪も同時並行で進むなどというような「虚無的な」教えは聖書には存在しない。

「善は悪に勝つとは限らない」という「信仰」がどうして「聖書に対して意識的または意図的に不忠実」ではないと言えるのだろうか。

明らかに意識的または意図的な不忠実である。

教会に行って一番がっかりするのは「今のキリスト教は、善の勝利を確信していない」という点である。

共産主義国の悪を見ても「他人事」である。

なぜならば「善と悪は同時並行で進む」と考えているからである。

積極的に悪と戦い、悪魔の勢力を滅ぼそうとしない。

「さあ、悪と戦おう。われわれは勝利するから!」というヨシュアとカレブの信仰を今日の教会に見ない。

明らかに「地の塩」の役割の放棄である。

前千年王国説も無千年王国説も、聖書の「勝利の信仰」と矛盾する教えなので、誤謬であると断言できる。

われわれは終末論において、後千年王国説以外に正しい教えは存在しないと考える。