神は私を何度も何度も挫折、別離、貧困などの試練の中で鍛えてくださいました。

「世離れ」をし、「世にあるもの」を愛さなくなるために、苦しみを経験させられました。

「私にとって生きることは、キリスト。死もまた利益なり。」との御言葉のとおりの心境になりました。

神が用いられる器とは、「皮膚一枚で、肉も骨も取り除かれた人間」だと思います。

中身が空洞で、神の御霊しかないような人間。

このように用いられる器として選ばれた人は、「肉と骨を取り除かれ」ます。

自分の野心、欲望、愛着などをすべて否定するように導かれます。

「しゃれにならない」別離はその一つです。

「え~、この人を失うのか!」と言うような人を奪われます。

自分が寄りかかっていた柱を失います。

人間に信頼しなくなり、神にのみ信頼できるようになるまで追い詰められます。

私たちは「神の作品」なのです。


「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」(エペ2・10)


一つ、自分にとって大きな存在を失うと、その後に、神は慰めを与えてくださいます。

しかし、信仰のレベルが増してくると、喪失の後にも慰めはあまりなくなります。

つまり、立ち直る方法を習得しているのでそのような慰めは不要になるからです。

神の器になるために訓練されている人は、幸いです。

なぜならば、人生そのものがすでに成功したも同然だからです。

神の訓練を受けているということは、一番有益な人生に導かれているという徴です。

むなしい利益と名誉と権力と快楽に満ちた人生よりも、神に用いられる人生のほうがはるかに有益で尊い。

私たちは、人生の勝ち組として選ばれたのです。