1.

神を信じるということは「全身全霊を委ねる」ということを意味します。

つまり、キリストの身代わりの犠牲を信じ、神との和解の契約を結んで、神の民の仲間になることです。

そうすると、将来は完全に守られ、すべてが利益に変わります。

絶対に安全で確実な「神の列車」に乗り込むことです。

そのレールは、祝福された永遠の国というゴールに直結しています。

自分がその列車の中で何をしようと、全能の神が保証してくださるので、必ず目的地につきますし、自分の行動によって失敗する可能性はゼロです。

私は20代にすべてを委ねました。今までいろいろありましたが、全部利益になりました。

もっとも無駄のない、有意義な人生を送ることができました。

世間から見ればどう評価されるかわかりませんが、そんなことどうでもいいです。世間が自分を幸せにしてくれるわけではないので。

自分の人生について責任を取ってくださるのは神ご自身なので、何が起きても全部自分にとって最善であるとわかれば、未来について安心していられます。

2.

たとえば、実績のない施工業者に家を建ててもらうのと、有名ブランドで実績のある施工業者に建ててもらうのと安心感が違います。

安心感は、信頼する相手によって左右されます。

聖書の神を最高権威として据えるかどうかで、すべてが決まると思います。

「これよりも優れた施工業者はいない。絶対確実によい家を建ててくれる」と認識すれば、安心も絶対になります。

ですから、「疑わない」能力にすべてがかかっています。

神への疑いがあるとその程度に応じて不安が増します。

それゆえ「疑わない」訓練を積む必要があるのです。

私たちは、雨、嵐、洪水、・・・これらの出来事があっても、「晴れ間は二度と現れない」と考えません。

目の前の出来事から完全に独立した存在になることが、成長なのです。

「被造物を恐れない。神だけを恐れる」と心に決めて、それをどれだけ確実なものとできるか、この「決意」の大きさにすべてがかかっています。

3.

具体的には、目の前で嵐が吹き荒れることがあっても「それでも神を信じます」と言うことです。

疑いは、自分が神の上に立つことで、偶像礼拝です。

偶像礼拝は、自然の秩序を乱すことですから、悔い改めを拒む偶像礼拝者に対する刑罰は、同性愛です。

磁石のプラスとプラスが結びつき、マイナスとマイナスが結びつくことは、自然ではありません。

神は、このような「秩序の逆転」をその頑固者に刑罰としてお与えになります。

同性愛者は、「極めて不自然な状態」に陥っており、無理をしています。

その無理を隠すために、大声を上げたり、奇声を発し、強がります。

同性愛は刑罰なので、抜け出たいのに抜け出ることができません。

解決は、偶像礼拝をやめて、神を最高権威として受け入れる以外にはありません。

4.

神を疑い続ける人は、頼れる者がなくなるので、突っ張るようになり、不自然な状態に陥り、素の自分を出せなくなります。

全部自分で解決しなければならないので、絶えず不安で、ぐらぐらし、問題が起きると、それを徹底的に解決するまで手を抜けなくなります。

たとえば、自分の名誉を傷つけられると、裁判して徹底して戦います。

もちろん、裁判をすることが悪いわけではありません。しかし、神を信じる人は、その問題の糸がこんがらかって、どうしようもなくなったら、神に委ねて手を引きます。

神に依存できない人は、委ねることができないので、自分が不利になっても関わり続けます。

場合によっては、人殺しまでする人もいる。

手放すべき時を逃す人は、悪霊の餌食になります。

人間関係のもつれを解消しようとして、結局、さらに悪化させてしまいます。

「自分の手に負えなくなった、人間的な努力はすべてした」と判断したら、神にすべてを委ねます。

「これ以上は私の責任ではありません。神様よろしくお願いします」と言って、忘れる。

この方法を学んだ人にはストレスはありません。